2003年3月22日土曜日

珊瑚集: ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
(La lune blanche) PAUL VERLAINE
La lune blanche
Luit dans les bois ;
De chaque branche
Part une voix
Sous la ramée...

O bien-aimée.

L’étang reflète,
Profond miroir,
La silhoutte
Du saule noir
Où le vent pleure...

Rêvons, c’est l’heure,

Un vast et tendre
Apaisement
Semble descendre
Du firmament
Que l’astre irise...

C’est l’heure exquise.

(La Bonne Chanson)
ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン
ましろの月は
森にかがやく。
枝々のささやく聲は
繁のかげに
ああ愛するものよといふ。

底なき鏡の
池水に
影いと暗き水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。

ひろくやさしき
しづけさの
降りてひろごる夜の空。
月の光は虹となる。
ああ、うつくしの夜や。
単語
luire 《文》 光る, 輝く. 反射する, 反映する.
ramée 〈女〉葉のついたまま切り取られた枝, 柴《文》 枝の葉
saule 〈男〉  植物 柳.
apaisement〈男〉(苦しみなどを)静める〔和らげる〕こと, 鎮静,
astre [astr]〈男〉天体, 星. 詩 太陽〔月〕.
iriser [irize]〈他〉  虹色にする.

「ましろの月」とはすごい表現です。普通は「白い月」と訳してしまう。それから「ああ愛するものよといふ。」という何か字余りみたいな表現がなんともいえ ない。また林芙美子で恐縮ですが、彼女の「蒼馬を見たり」でも「元気で生きていてくださいと呼ぶ。」とやはり字余りみたいな印象的な区切りがありました。 彼女は荷風の訳詩が大好きだったから、きっと真似したのだ。"saule" を「水柳」としたのはおさまりを考えてでしょうね。柳は水際に生えるものだから間違っては居ない。普通「天体」を意味する"astre" が「月」と訳されていますが、詩文では太陽とか月を表すんですね。星というのは詩人にとってはあまりにも遠い存在なのだ。

余丁町散人 (2003.3.22)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月19日水曜日

珊瑚集:ぴあの ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
(Le piano...)  PAUL VERLAINE
Son joyeux, importun d'un clavecin sonore.
(Pétrus Borel) 

Le piano que baise une main fréle
Luit dans le soir rose et gris vaguement,
Tandis qu’avec un très léger bruit d’aile

Un  air bien vieux, bien faible et bien charment
Rôde discret, épeuré quasiment
Par le boudoir longtemps parfumé d’Elle.

Qu’est-ce que c’est que ce berceau soudain
Qui lentement dorlote mon pauvre être ?
Que voudrais-tu de moi, doux chant badin ?

Qu’as-tu voulu, fin refrain incertain
Qui vas tantôt mourir vers la fenêtre
Ouverte un peu sur le petit jardin ?
(Romances sans Paroles) 

ぴあの ポオル・ヴヱルレヱン



しなやかなる手にふるるピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色の夕に輝く。
かすかなう翼のひびき力なくして快き
すたれし歌の一節は
たゆたひつつも恐る恐る
美しき人の移香こめし化粧の間にさまよふ。
ああ我思ひをばゆるゆるゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節、何をか我に思へとや。
一節毎に繰り返す聞えぬ程の REFRAIN は
何をかわれに求むるよ。
聞かんとすれば聞く間もなく
その歌声は小庭の方に消えて行く。
細目にあけし窓のすきより。

ヴェルレーヌの「ことばなき恋歌」からです。優れて音楽的な詩を書いたヴェルレーヌですが、これは「ピアノ」と題したそのものズバリの音楽の詩。ランボー との放浪時代に書かれたものです。荷風は音楽が好きでした。でもピアノは弾かなかった。漱石の『猫』にヴァイオリンを弾きたいがガキ大将の制裁が怖いとい うお話しがありましたが、荷風も軟派だとして学校時代ひどく虐められたから、その上ピアノまで弾いたら目も当てられなかったのでしょうね。制裁を加えたの が陸軍大臣になったりなんかして、それも荷風が軍人を嫌った理由のようです。"le soir rose et gris vaguement"  を「おぼろに染まる薄薔薇色の夕」と訳してますが、素晴らしい。でもどうして "Le piano que baise une main fréle" を「しなやかなる手にふるるピアノ」と婉曲的に上品に訳したのかな。「しなやかな手に接吻するピアノ」と直訳したほうが、ちょっとエロティックでよかった のじゃないかと思うけど・・・。

余丁町散人 (2003.3.19)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月15日土曜日

La dictature du sourire éclatant (2003.1.15) 白く輝く笑顔が社会を支配

2003.1.15
我が道を行くフランスでも歯列矯正などの口許の美容が大流行のようです。アメリカの影響ですが、これもグローバリゼーションですね。日本では、少しぐらい八重歯の方が「かわいい」となるらしいのですが、十年後はどうなっているのだろう。親たちは子供の歯並びをもうちょっと考えた方が良いかも知れない。

La dictature du sourire éclatant (2003.1.15)

白く輝く笑顔が社会を支配

歯を白くすること、それを見せびらかす為に何でもすることが、本当の社会的強制となってきている。

「歯を清潔にしましょう」と歯磨き粉の香りをかすかに振りまきながら鼈甲眼鏡をかけた白衣の歯科医がみなに演説する、そんな時代はもう終わった。この快楽の時代には、正統的な歯医者さんは、昔は商業的と見なされていた美容目的の矯正歯科医のかげにすっかりかすんでしまった。多くの病院や歯科クリニックでは「笑顔(歯並び)の治療診断」が実施されているし、「笑顔(歯並び)」についての学際的なシンポジウムまで開かれるくらいである。この意味するところは重大である。昔は虫歯の治療や予防のためにしか歯科医を訪れることはなかった。しかし今や歯科医に行くのは、義務的とまでになった美容歯列矯正のためとなりつつある。歯を健康状態に保つというよりも、歯を完璧に美しくすると言うことが関心事になってきているからである。

歯並びをピアノの鍵盤のように完璧に矯正することや、歯のエナメル質を完璧に真っ白にするいうのは、もはやショービジネスに携わる人たちだけの義務ではなくなっている。きれいな歯という切り札があれば、人生に成功することが出来るのだ。「この二三年、美容目的の歯科矯正が急増している。人々は歯のほんのわずかは欠陥でさえ競って直したがる」とパリの歯科医はいう。セラミックの歯に植え替えたりすることから、歯の裏側にこっそりと宝石を埋め込んだりすることさえするのだ。この関係の治療はほとんどのケース患者の全額負担となる。圧倒的に一番多いのは、歯を白くする治療であり、800ユーロほどかかるが、特殊なゲルを特別光線を当てて活性化するものである。

今後は、この治療を自宅でも出来るようになる。アメリカの企業グループに属するランブラント社は、「特別な白くする歯磨き」で有名であるが、このたび医療局からこの歯を白くする漂白剤の販売許可を取得した。これは過酸素剤をベースとした薬剤で、特別の器具を使用して、一日一時間、2週間に渡り歯に施すことになる。18ヶ月毎に定期的にやる必要がある。タバコを吸ったりコーヒーを飲んだり、コケモモのジャムが好きな人はもうちょっとこの間隔を縮める。

7月以来、この薬剤「ランブラントプラス」(ひとつ60ユーロ)はフランスで5万個売れた。同社はこれは時代の流れに沿ったことだとして「白い歯は社会生活を有利にする。もし貴方の笑顔が美しいと、人からちょっとしたサービスを受けやすくなる」という。「十年以内に、米国のように、歯の漂白は日常的な身だしなみとなる」と。

この完璧な歯並びやアメリカ型の「笑顔」を熱狂的に信ずる人たちは、職業上、また私的生活に於いても、外観は決定的な重要性を持つと主張する。完璧な歯並びでないと、忙しい都市の単身者達の間で今流行している「スピード・デイト」でパートナーを獲得するチャンスは難しくなるのである。

歯のエナメル質が黄色いことは、テレビ番組出演の候補者の中からまずその候補者を外す理由となる。画像で笑顔を振りまこうとすればするほど、逆説的なことも起こる。マドンナのような金歯や、ミック・ジャガーのダイヤモンド歯はちょっと「アウト(流行遅れ)」になりつつあり、最近のジェット機族の一部では、トム・クルーズやフェイ・ダナウェイのような人気俳優のように、金属製の輪冠を見えるように歯に付けるのが流行りだしている。それを見て人は子供時代の歯列矯正器にノスタルジーを感じるのだ。

長い間、歯ブラシの消費が立ち後れていた国(フランス)にとっては、確かにこの新しい趣味の勃興を否定的に判断することは出来ないだろう。しかし一部の専門家はちょっと行き過ぎではないかと心配している。「正常な状態に戻して、患者を気持ちよくさせるという限りにおいて、美容歯列矯正は正当なものだ。問題は、プロは常に過剰な消費者の需要には抵抗しがたいと言うことで、それはもう笑顔(歯並び)の独裁制と言って良いほどにまで進んでいる」とパリの歯科医は言う。笑顔(歯並び)というものは、学問的な正常性の規範で定義されるべきものだとして「犬歯が下唇に輕く接すること」が規範であると最近のシンポジウムでさる専門家は、対立する意見を否定して、歯並びの基準を厳密に定義した。

このような傾向は、パリの病院の胃腸科医エヴァ・アメイセン博士をイライラさせる。「美学的に、また統計的に、外見が完璧な人間というのは存在しない。完璧を追求することは最終的に紋切り型を寄せ集めることになる」と彼女は言う。「ちょっと欠陥があった方が、時としてそのひとの個性がより表れることになる。しかし自分の子供を完璧な歯並びを持った子に育てようと必死で、それをやらないのは無責任と信じている親たちに、これを説明してもなかなか分かってくれない」という。

今、服装コードについては緩和の方向にあるのに、人体についてはその逆で、完璧さを求める傾向にある。これが美容整形が花盛りであることに繋がっている。今米国で流行りだした最先端の例であるが、若い女性の間で、完璧な、小さい縦長の「おへそ」を求めて、おへその整形手術が流行っている。こういう事実からして、クローン人間製造が遺伝子造作に繋がることは間違いないところである。

Jean-Michel Normand

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 15.01.03

2003年3月13日木曜日

〔再録〕荷風と月 ー『断腸亭日乗』の驚くべき正確さー






荷風と月 ー『断腸亭日乗』の驚くべき正確さー  2003.3.13

3月10日の「きょうは何の日」で述べましたが1945年3月10日に東京大空襲がありました。一夜にして死者10万人以上を出した大惨事であり、永井荷風の偏奇館も炎上しました。この晩の『断腸亭日乗』の記述は40年以上に渡る荷風日記の中で白眉とも言える立派な文章であり、いつ読んでも自然と背筋が真っ直ぐになります。今回のテーマは、この名文の中で「月」が出てくることについてです。荷風は月を愛でる人であり、いろんな作品の中で「月」を実に効果的に配置しているのですが、この日記にも出てくるのです。空襲の阿鼻叫喚の描写の中に「月」が出てくる。「下弦の繊月凄然として愛宕山の方より昇るを見る」と書いている。空襲と月とはいかにも場違いとの印象ですが、それが故に何とも言えないもの凄さがあって実に効果的なのです。全文を引用しますので是非お読みください。

<引用はじめ>
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思い、早くも立迷ふ煙の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難しかるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火がありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃がしやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、余は風の方向よと火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもすこし知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮宅の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて來り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ、余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼少からぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出勤し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台來りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためここにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、
<引用終わり>

何度読んでも凄い文章だと思います。でもちょっと出来すぎた感じもある。だいたい空襲とは新月の夜にやるものではないのか、荷風は効果を狙って「下弦の繊月」を捏造したのか、とけしからぬ疑問を抱きました。で、調べてみました。インターネットとはこう言う時にとても便利で、ちゃんと暦のサイトがあります。「こよみのページ」というサイトで、過去に遡って月齢と月出没時間の計算が出来るのです。1945年3月10日の東京地方でのデータはこうなりました。

 月出  午前3時08分(方角115度)
 月没  午後1時12分(方角242度)
 月正中 午前8時09分(高さ 31度)
 月齢  25.4日

いやあ驚きました。まったく正確なんです。月齢25.4日とはまさに「下弦の繊月」です。月出は午前3時8分であり午前4時頃の高さは正中高度から計算すると7.7度となります。時間も正確です。愛宕山の上に顔を出した時間です。月出方位115度は荷風が休憩したスペイン大使館から見てちょうど愛宕山の方角となります。方角も正確です。ちなみにこの日空襲が始まったのは午前0時8分であり、月はまだ出ていなかったので米軍機は定石通り闇の中を飛来したということで空襲と月も矛盾しない。

『断腸亭日乗』は記録と言うよりは創作であるとする「学説」が信じられてきましたが、こと客観的な記述ではこのように驚く程正確なのです。阿鼻叫喚の中でこれだけ冷静で居られた永井荷風とはやはりただ者ではないのです。


2003年3月11日火曜日

国際連合(United Nations)と連合国(United Nations)

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2003.3.11
イラク問題では日本は世界から無視された格好だ。誰も日本の首相の意見など聞きに来ないし、フランスのシラク大統領やド・ヴィルパン外相の国際社会における凄まじいまでの存在感と較べるとまことに影が薄い。中東は地理的に遠いといってもお隣の中国の意向は重視されるだからやりきれない。でもこれが現在の国際連合を中心とした国際秩序というものなのである。こと安全保障の問題となると常任理事国五カ国が圧倒的な発言力を有する。これは国際連合の設立の経緯から考えれば当たり前のことである。

以前ネットニュース(インターネットフォーラム)で、参加者のあまりに夜郎自大的な発言に辟易し今の「国際連合」とは戦争中の「連合国」の名前と実質を継承したものであり日本は身の程をわきまえろと述べたら、激烈な感情的反発を買ったことがある。デマだとまで言われた(HPに「靖国神社問題」としてスレッドを収録)。日本が連合国の手下になったなぞと言うことは「ニッポン・ナショナリスト」にとっては耐え難い屈辱であったらしい。でも1942年にローズベルトの提案により「連合国」を正式には「United Nations」と呼ぶこととなったこと、国際連合発足の際に「我ら連合国の人民」が「国際連合(United Nations)」を作ると宣言したことは、国連憲章にも書いてある通り歴史的事実である(国連憲章の書き出しは、WE THE PEOPLES OF THE UNITED NATIONS DETERMINED...で始まる)。連合国を「allied」と呼ぶのは通称に過ぎない。国連憲章には旧敵国条項もあるし、安保理の常任理事国は第二次大戦の戦勝国で構成されている。国連は今でも「悪の枢軸と戦う連合国」のままなのである。ところが日本では 「United Nations」の二つの意味を「連合国」と「国際連合」にうまく使い分けて和訳してしまったので、そのへんよく理解されていないようだ(ちなみに中国では国連のことを今でも「連合国」と呼んでいる)。これが日本人が国連は世界の国々が民主的に物事を決める機関であるとのある種の幻想を抱くことにつながっている。でもそのような「ナショナリスト」も今度のイラク問題をめぐる世界の動きを見てだんだん現実が分かってきているのではないか。いずれにせよあまり愉快な事実ではない。この国連(連合国)中心の世界秩序は当分続く。すくなくとも現在の国際連合で国際問題に対処できないとはっきりした時点でないと新しい仕組みの検討さえも開始できないだろう。

ところがここにきて「連合国」内部で新たな亀裂が生じ始めている。国連発足直後からイデオロギーの対立から連合国内部で対立が発生したのであるが、その対立が漸くソ連の崩壊で解消したと思ったら、今度はフランスとアングロサクソンの対立となった。アメリカに言わせれば我々がヒットラーから助けてやったのに何をフランスは生意気なことを言うかと言うところだろうが、フランスはド・ゴールのおかげで少なくとも形式的にはれっきとした戦勝国となったことは紛れもない事実であり、そんなこと言われても片腹痛いだろう。本稿を書いている時点では、まだアメリカは国連の新決議なしにイラクに攻め込むとははっきり言っていないが、フランスの拒否権発動は間違いないところであろう。展開次第では国連の権威と協調体制に相当傷つくことになるのは事実である。それが国連に替わる新しい国際秩序の枠組み作りに結びつくのであろうか。そういう期待をする人がいることは理解できるが、これまた非現実的だろう。米仏の対立はプラグマティズムの手法に関する対立といってもいい。背景には地政学的な利害の相違があるが、状況が変われば簡単に利害は一致するのだ。米仏関係はなにせアメリカ独立戦争の時代からの緊密な関係である。アングロサクソンとフランスの文化的近似性は表面的な違いにだけ目を奪われる日本人の想像以上のものだ。結局仲直りをするだろう。

朝鮮半島で有事が起こった場合も現在の安保理常任理事国の判断で物事が決まる。直接の当事者である日本と韓国の意見はアメリカと中国と通じてでないと表明できないのである。ドイツはこのような国際社会における己の立場を十分理解しておりフランス(欧州)に急接近することでフランスを通じた形ではあるが国際社会への発言力を確保した。ドイツはフランスとドイツの国籍を共有化することまで提案している。ドイツとしてはきわめて現実的な選択である。それに対し日本では未だに中国に対して感情的な敵意を露わにする人が多い。反米感情もある。日本が中国や韓国とドイツとフランスのような親密な関係を築くには一体何百年かかるのであろうか。昨今やたらに元気がいいいわゆる「ニッポン・ナショナリスト」は、中国やアメリカとの対立をあおり立てることで、逆に日本の国際的孤立化と小国化をめざしていると言っていい。現実をはっきり認識し、その上に立った建設的な思考が求められる。

2003年3月7日金曜日

Le Monde : 未来の兵隊

2003.3.7

「未来の歩兵」と題するとても面白い記事がありました。いくら飛行機やミサイルが進歩しても戦争を最終的に決するのは歩兵。歩兵の戦い方については、人間の本質に関するものであり、実に奥深い議論があります。散人も科学の進歩が歩兵やサラリーマンのチームワークのあり方に影響を及ぼすとの仮説を立てていましたが、この記事はそれを裏付けるものであります。散人がむかし書いた「21世紀型チームワーク」と企業理念 (1997/12)も読んでね。

でもとても悲しいことは、最新の科学技術の進歩があっても兵隊の仕事は決して楽にはならないと言うことです。「兵隊に楽をさせるためではない」とエライ人がいっている。戦後の技術進歩もおなじ。主婦は電気釜のおかげでたいへん楽することが可能になりましたが、お父さんの仕事はITの進歩で逆にきつくなっている。不条理です。


Soldats du futur (2003.3.6)
未来の兵隊


2004年から米国の歩兵は電子器具で装備され、従来からの陸上戦闘方法を大きく変えることになる。

遠くからM4ライフルと迷彩服にクブラー製のヘルメットと防弾チョッキを付けたこの「ランド・ワリアー」と呼ばれる新型陸上戦闘員達の訓練を見ると、普通の米国歩兵と何ら変わらないようにみえる。しかし、近づいてよく見るとびっくりするほどの違いである。銃には三つの長くて黒いチューブがネジ止めされている。左側には300メートル先の物体を拡大してみることが出来るズームカメラが取り付けてある。遊底には熱により人間やエンジンを夜でも霧の中でも粉塵の中でも探知できる熱探知装置。弾倉の近くには2キロ先まで正確に距離を測ることが出来るレーザー装置。これらの映像はすべてヘルメットの前にぶらぶらさせて取り付けてある2.5センチのミニスクリーンに表示されるので兵隊は自分の目のところにそれを持ってきてみることが出来る。

さらにこの「ランド・ワリアー」はどんな知らないところででも絶対迷うことがない。GPS装置が防弾チョッキのポケットにしまわれているからだ。いつでもスクリーンの上に地図を呼び出して自分の位置を知ることが出来る。そのシステムはすべてベルトに埋め込まれたミニコンが制御する。

しかし一番すごい点はこの「ランド・ワリアー」の装備は見えない点にある。各兵隊は常に他のメンバーと移動型で最新型の無線でつながっている状態にある。胸のところに小さなデジタル無線器がはめ込まれてあり送信受信とも自由自在だ。スクリーン上に興味深い物体を捉えるとボタンを押すだけで仲間全員にそれを伝えることが出来る。ヘルメットについて居るマイクで仲間全員に話しかけることが出来る。このマイクは発声時の頭蓋骨の振動をとらえるタイプであるから、どんな騒音の中でもかすかに囁くだけで通信が可能だ。スピーカーはヘルメットに埋め込まれている。外付けの二つのマイクは150メートル先のかすかな物音でも探知可能だ。大音響となると自動的に消音機能が働くので鼓膜を痛めることもない。

GPS装置とレーザー装置はお互いにデータ交換するようになっており、常に歩兵は仲間の歩兵がそれぞれどこにいるかスクリーンに表示させて知ることが出来る。もし一人が銃で仲間を狙ってしまうとヘルメットから警告音が発せられる仕組みだ。

電子メールも送ることが出来る。最新の技術進歩にも拘わらず下士官は一定の時間には必ず報告書を文書で書くことが義務づけられているからだ。スクリーン上のバーチャルキーボードか無線機に取り付けたボタンを押してテキストを書くが、あらかじめ用意された定型報告書文案リストの中から選んでもよい。

「ランド・ワリアー」は同時に後方部隊ともつながっている。司令部では歩兵部隊がどんなに遠くにいようとも戦場で何が起こっているのかを知り、直接歩兵と話すことも出来る。砲兵隊は、歩兵がレーザーでとらえた敵の位置を瞬間的に正確に知ることが出来る。この装備は歩兵が24時間活動できるだけの電力を供給する電池込みで全部で6キロの重さである。

民生電子機器の進歩によりこのことが可能になった。2004年の早い時期から陸軍歩兵部隊の相当数の部隊に導入が予定されている。この二月には実際に演習でテストした。いまは最後の調整作業に入っている。

担当の大佐はこう言っている。「最初は兵隊達が新装備になれるには少なくとも2週間位かかると思っていたが、実際には午前中だけで大丈夫だった。ビデオゲームやインターネットで遊んでいる世代はこれを直感的に理解することが出来る。これは従来の戦法を根本的に見直しすることにつながる。いままでは歩兵が敵陣に突撃をかける時は、どうしてもグループを作りお互いに見える距離に固まる傾向があった。これは本能的なものできわめて強い感情である。でもこの電子装備のおかげでお互いに常にコミュニケーションが取られることで歩兵は散開できることになり、もっと冒険的な展開が可能になる。これで兵隊間のコーディネーションがよくなることはもちろんだが、もっと大胆に創造的な戦術が可能になる。最初は米国の歩兵が土地勘のないところでの市街地戦などで有効だと考えていたが、今はすべての戦闘で有効であることが分かってきた。これは一部の古い人間が心配するように歩兵の仕事を楽できれいなものにするということではない。戦争とは常に疲労困憊し泥だらけになるものだ。決して歩兵達を手を汚さない技術家集団に変えるつもりはない。我々の目的は、決して兵隊を楽をさせようと言うのではなく、兵隊の殺傷能力を増加させることにあるのだ」という。

(以下、未来歩兵の次世代バージョンについて等。略)

Yves Eudes


・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.03.03

2003年3月5日水曜日

Le Monde フロイトなしに夢を見ることが出来るか? 2003.3.5



夢のメカニズムについての大脳 神経生理学者の最近の研究です。難しいけれどとても面白い。フロイトの理論が生化学的に裏付けられた格好です。夢というのは目覚める瞬間に見るものなの だ!


Peut-on rêver sans Freud ? (2003.3.2) 

フロイトなしに夢を見ることが出来るか?

目覚めから夢が生まれる。この最近の神経バイオロジー のアプローチは精神分析とは矛盾しない。

1899年に『夢の解釈』が出版された。このなかでジ グムンド・フロイトは精神分析の基礎を築き「無意識の意識にたどり着く王道を」切り開いた。一世紀が経過してもこの夢の分析は精神分析の実践面で大きな柱 の一つとなっている。いま最近の神経科学の研究の結果、この手法の生化学的な原理がようやく分かるようになった。

夢とは一体何か? 一連の支離滅裂で不思議な出来事や 言葉の連続であり、時として叙述しがたいものである。しかしフロイトによればそれは多くのことのほんの表面にしか過ぎないと言う。どんなの馬鹿げた夢でも 変形していても厳格な理論で説明できるのだ。そのシンボルの裏に隠れた意味を引き出すためには、いくつかの大原則に基づきその解釈に取り組む必要がある。 大原則とは、夢は抑圧された欲望の実現或いは挫折であり、幼児期における記憶がその根本にあり、最近の出来事の場合は日中の日常生活での記憶が「材料」と なっており、夢分析の仕事は、その「材料」を暗号解読の方法で分析し、「隠された意識」を抑圧のバリアから引っ張り出すことにあるとされる。夢の分析に専 念して、精神分析医の助けを借りて、出来るだけ自由に意識を解放させることで、その根元にたどり着くことが出来るのである。

フロイトの天才はその手法を見つけ大きな道を切り開い た。実践ばかりではなく理論も発展させた。「この夢の分析解釈は、精神分析の手法がその後それから発展して進歩するにつけ、だんだん基本的なものではなく なってきたが、それでも夢分析は患者の精神状態を図る圧力計のようなものであり重要なものとして残っている」と精神分析医は言う。しかし神経工学の専門家 達は素晴らしい発見をした。神経工学で夢のメカニズムを分析するやり方は、必ずしも精神分析医の開祖がやった方法ではないのだ。

「フロイトの方法ではなくてどうやって夢を理解するの か」というのが2002年19月号の雑誌「科学と将来」が神経工学者ソフィー・シュワルツ博士の論文の前書きとして書いた言葉である。博士は「神経生化学 的な」アプローチの結果、夢というものは眠っている間の脳活動の歪みの直接的な結果であると発表したのである。この歪みが夢の中で現実が不思議な具合にゆ がめられることに繋がるのだ。知っている人の顔が怪物の顔になったり、常識はずれの大きさに拡大されたり、いろいろの色や白黒で混ざり合ったりするのだ。

コントロールの不在

こういう仮説は何故僕が巨大な犬の夢を見たのかは説明 するが、どういう理由で犬の夢を見たのかは説明しない! というのがフロイトの門下生達が唱える反論であろう。二つの流派は永遠に一致しないものなのだろ うか? 補完関係にあるのではなく折り合えないものなのだろうか? 現実は幸いにしてもっと微妙である。生化学者と精神分析医と対話は合致しないようにみ えるが、その時点に於いて彼等は大きな考え方において近づいているのである。脳神経系統のアナログ的働きという点なのである。神経性学者のタッシン博士 は、非常に有望な、二つの考え方をまとめうる、夢のメカニズムについての仮説を提案している。

眠りの間に於いては、大脳の皮質は二つのタイプのコン トロールが存在しない状態で機能している。眼や耳からはいる情報などの外部感覚によるコントロールと、神経変調器と呼ばれる脳神経の活動を上部から見張っ ている特定の脳細胞によるコントロールである。タッシン博士は「睡眠の間は皮質の活動は前日に形成された記憶に狭い範囲で依存しながらのものとなる。別の 言葉で言えば脳中枢神経のアナログ的(類推的)働きに依存するのである」とのこと。

成人の脳には二つのモードでの記憶の蓄積がある。一つ は迅速な記憶であり、アナログ記憶とも呼ばれるが、零点一秒程度の間に無意識のうちに記憶される情報である。もう一つはゆっくりとした記憶というものであ り、認識の記憶と呼ばれるが、情報が記憶に蓄積される前に十分意識的に分析されるものである。数学者のホップフィールド博士は、繰り返し繰り返し情報が脳 にはいることで記憶を形成すると同時に連想を形成すると脳のアナログ的働きを説明する。「船を見るたびに同時に黄色い雨合羽と無線アンテナを見ると、しま いに雨合羽と無線アンテナを見るだけで船を思い出す」と説明する。

神経の再活性化

それで夢はどうなったのか? その点に入る前に、なぞ の正体を見極める一つの鍵を紹介する。正常な眠りの期間には「マイクロ覚醒」と呼ばれる非常に短い覚醒の期間がたくさん混じっているのである。ほんの数秒 の覚醒期間だが、一晩中で何十回と起こるのである。これが重要なのであるが、動物実験によればこの覚醒期間になるとすぐに神経の変調器が作動することが分 かったのである。ここがタッシン博士の仮説の重要なところであるが、思案させるものであり、とても魅力的な仮説なのである。夢は目覚めることから発生する のだ!

「われわれが安定した覚醒にある間は我々の脳の認識機 能は我々の行動と思考と一貫性のあるものとなる。しかし、この「マイクロ覚醒」の期間は神経の変調器が急に活動にはいるため、急に呼び出された「記憶」の 内容が現実の認識として引きずられることになるのである。この作用はほんの零点一秒ぐらいの間で起こるため正常な覚醒状態では機能する大脳の抑制機能が働 かないことになる」と博士は説明する。そこで「おかしな」夢を見ることになり、その夢の分析解釈が重要になってくるのである。

実際に、睡眠中は我々の脳の「記憶」は偶然に動き出す のではない。「動き出すチャンスの高い記憶とは一番安定した形で保持されている記憶である。別の言葉で言えば一番重要なもので、一番感情を伴うものであ り、幼年期に獲得したも記憶である。これは夢を見た日の記憶とは異なるものである」と脳神経生化学者は強調する。この研究の方向が有望ということはフロイ トは間違っては居なかったということである。フロイトの言ったように、脳が完全に目覚めないために夢が機能するのであり、夢はまさに「安眠の守り神」なの である。

Catherine Vincent

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 02.03.03


2003年2月17日月曜日

珊瑚集:そぞろあるき アルチュウル・ランボォ



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

アルチュール・ランボー
原文       荷風訳
Sensation       Arthur Rimbaud
Par les soir bleur d’été, j’irais dans les sentiers,

Picoté par le blés, fouler l’herbe menue :

Rêveur, j’en sentirais la fraîcheur à mes pieds.

Je laisserai le vent baigner ma tête nue.


Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :

Mais l’amour infini me montera dans l’âmes,

Et j’irai loin, bien loin comme un bohémien,

Par la Nature, - heureux comme avec une femme.

(Poésies)

そぞろあるき         アルチュウル・ランボォ

蒼き夏の夜や
麦の香に醉ひ野草をふみて
小みちを行かば
心はゆるみ、我足さはやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。


われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛
魂の底に脇出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いよ遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。



『珊瑚集』にただ一つ収録されたランボーの詩です。岩波の解説によれば、荷風がフランスにいた頃、ランボーは今日ほど有名でなく、荷風はこの詩を「ワルク の詞華集」から引用したものでランボー単独の詩集を持っていなかった可能性もあるとのこと。確かに荷風が読んだフランス文献リストを探してもランボーの詩 集は載っていません。でも荷風が選んだこのランボーの詩は、のびのびしていてなかなか良いものだと思う。ボードレールの「気持ち悪い」言葉より日本人好み じゃないかしら。

「恋人と行く如く心うれしく」なんて書いてあるので単なる「恋愛願望」の詩かと思えてしまうのですが、小林秀雄によればそれは間違っているとのことです。 小林によれば「ランボーには色情詩はあっても恋愛詩というものは一つもありません」とのこと。「彼はいつも血腥い絶対糾問者でありました。命をかけた詩作 さえ、馬鹿馬鹿しい愚考とみえた彼の眼に、恋愛とは一体どの位やりきれない汚物とみえたか、私がここで語るも愚かでありましょう。」と小林秀雄は語ります (「アルチュル・ランボオの恋愛観」)。もっと「上等の」感情を詠ったものなのであります。はい。

ちなみに林芙美子は荷風の『珊瑚集』をぼろぼろになるまで愛読したとのことです。このランボーの詩からも影響を受けなかったわけはない。下の詩は林芙美子 の『蒼馬を見たりー自序』の最初ですが、似ていると思いませんか?

  ああ二十五の女心の痛みかな!

  細々と海の色透きて見ゆる
  黍畑に立ちたり二十五の女は
  玉蜀黍よ玉蜀黍!
  かくばかり胸の痛むかな
  二十五の女は海を眺めて
  只呆然となり果てぬ。

今般出た川本三郎『林芙美子の昭和』は良書です。庶民の目から見た昭和という時代が、戦前戦後の連続性も含めて、非常によく描かれています。靖国問題の理 解にも繋がります。さすが東大法学部だけあるなあ、川本三郎。

余丁町散人 (2003.2.17)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年2月10日月曜日

Le Monde : おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)




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2003.2.10

冬になるとやっぱり鍋物ですね。フランスでもそうみたい。特別上等のフランス伝統の鍋料理の紹介です。ポートーフは散人も大好き。でも人類で最初に鍋料理を食べたのは誰かご存じですか。実に我らが祖先縄文人なのです。視点「日本文化のルーツとグローバリゼーショ」(2000/1)をお読みくだされ。


A la bonne fortune du pot-au-feu (2003.2.9)

おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)

ポートーフ(肉と野菜の鍋)こそフランスの美食と渾然と混ざり合わさったものである。これは元伯爵で第三身分の代表であったミラボーが「ポートーフこそが帝国の基礎である」と恒久化して以来、シンボル的価値を持つものともなっている。

この名前は、単に、アンチョビーの切り身を十字架風に並べ、種を抜いたオリーブを添え、エストラゴンとアンチョビーを焼いた肉に添えるという「ミラボー風」の盛りつけとして残っているだけではない。

名前から分かるように、ポートーフとは昔の言葉でいう「鍋」の中で料理された料理のことでフュレティエールが1691年に言ったように「朝から鍋を火にかける」のである。あの時代から、焼き物のような乾いた料理と水気のある料理、スープ、シチュー、炒め物は区別されていたのである。「ポー」というのはゾラの時代までは、料理に使う道具の名前だった。

スープと焼き物の区別は純粋に人類学的なものなのか? いやそうではない。今日に至ってもなお、赤肉の好きな人たちやポートーフのようなスープと肉や野菜が一緒に煮込んだものを作る人たちの間でその二つは区別されているのである。

「ポー」という鍋は、最初の内は自在鈎で吊されていたが、そのうちカマドの際に置かれるようになった。

鍋の中に、まるで魔法の儀式のように、肉の塊や骨を入れて煮立て、グローブを差し込んだタマネギを加え、薬草の束も加えるのだ。

鍋の中で、肉と野菜は渾然と交わり、お互いの味を吸収する。タイムや月桂樹の香りも。ポートーフは薬草抜きでは考えられないのである。

いろいろの種類の肉が必要とされる。半分脂身が入ったバラ肉や、痩せたすじ肉やゼラチン質の部分、なかでも良いのはもも肉だが、外股肉ではなくすね肉の部分がいい。また肩の部分の脂肪が少ないところやパルロンと呼ばれる二対の肩肉の隣の部分が良い。頬肉や尻尾の部分や脾臓も肉汁の色づけのために入れても良いが、三時間ほど煮てからその部分は猫にやる。

EXTRACTION DES SAVEURS

味の抽出

肉は、冷水から煮立てるべきか水が煮立ってから肉を入れるべきか? これは実に奥の深い問題である。おいしい肉汁を出そうと思えば冷水から肉を煮立てるべきであるが、煮立てている内に味がしみ出してしまうので肉が水っぽくなってしまうリスクがある。この香りの理論に基づく現象をサヴァランはオズマゾーネ現象と呼んだ。反対に肉を水が煮立ってから入れると味が濃縮するので肉の風味が良くなるのである。

一部の家庭では、牛肉の固形スープを溶いて水に入れることで、肉は水が煮立ってから入れている。そうすると肉も味が良くなり、スープも浮いた脂を取り去ると素晴らしくしっかりしたものとなる。両者の妥協点を探る方法は、スネ肉などの味がしっかりした肉は冷水から煮立てて行き、最後は挽肉用として使い、二時間ほど経ってからもっと上等の肉を加え、その肉はそのまま食べるというやり方だ。

このやり方は、ご近所のおばさんがやっているやり方だが、もっと洗練されたやり方でやってくれるのが、パリで最近流行の伝統的なレストラン「キンシー」の豪快なオーナー料理人だ。

彼のやり方には信頼が置ける。冷水から肉を煮立てはじめ、ニンジン、カブ、ネギなどの野菜を加え泡立つまで煮立て、三分の二ほど煮てから野菜を取り出し、スープの脂を除き、肉を形良く整えて小さな野菜類と肉汁と共に膀胱の袋に入れて、袋を括って締めてからさらに一時間ほどゆっくりポーチにする。

この二回に分けて加熱するポートーフはすごい技術だが、膀胱入りポートーフと呼ばれている。サヴァランのオズマゾム現象で肉の味も素晴らしく濃縮されている。これはすごい料理である。

深皿の上で膀胱が開かれると、薫り高い肉汁が噴出し、次に肉と付け合わせの野菜が出てくる。完全なる香りの調和である。

昔の偉大な料理人ブーファンの狂気のようなポートーフの思い出が今日によみがえる。これこそもう長らくダイエットとか香油とか醤油なんかに気をとられて忘れられていたものである。

この料理にはいくつかの香辛料が必須である。脊髄の味付けのための粗塩、ピクルス、マスタード、それに西洋ワサビだ。肉を食べる前に、肉汁を完全に脂を取り除いてから、カップかスープ皿に入れて供する。もし肉汁が残ったら、後でバーミセリを入れて暖め直して食べればいい。肉が残ると冷肉を使ってとてもおいしいサラダを作ることが出来るし、トマトやズッキーニや茄子などに入れて詰め物にすればおいしいし、挽肉料理にも使える。これこそが、冬の日曜日に最適の、おばあちゃんの味、出来あわせの材料で作る素敵な料理(フォルチュン・ドゥ・ポ)なのである。

Jean-Claude Ribaut

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 09.02.03

2003年2月8日土曜日

〔再録〕荷風が最後に食べた浅草のお店は?


  荷風が最後に食べた浅草のお店は?    余丁町散人、2003.2.8
「アームチェアー・デテクティブ」という言葉があります。椅子にゆったりと座ったまま現場には出かけないで推理ゲームだけを楽しむという探偵のことで、ネロ・ウルフやポワロなどのちょっと太った連中が多い。推理に必要な材料は手下が集めてくるので十分すぎるほどあり、後は優雅に「灰色の脳細胞」を働かせるだけで見事に真犯人を突き止めるのです。ホームズの小説のあら探しに人生の生き甲斐を見いだすシャーロッキアンもその「アームチェアーに座った探偵」のたぐいですが、永井荷風もこの種の楽しみの対象としてなかなかよろしいと思います。何せ研究書が山とあるので、推理する材料に困ることはありません。今回はこの「アームチェアー推理」を楽しむこととします。テーマは「荷風が浅草で最後に飯を食った店はどこか?」と言うこと。

まず定説から行きましょう。荷風ファンのバイブルである秋庭太郎の『新考永井荷風』によれば昭和34年「荷風はこの年も正月二月の両月、雨の日も雪の日も一日たりとも欠くことなく、三月一日も正午浅草に赴き、アリゾナに於いて朝昼兼帯の食事を済ませて帰る際に発病、店先で転倒、アリゾナ主人の介抱を拒絶して独り遅々として大通りまで歩みタクシーに乗って八幡町の家に帰った。この日が荷風の浅草行きの最後となった」と重々しく書かれています。『日乗』でも「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる」とあり、以降浅草の名前は出てきませんので、三月一日と言うことはほぼ間違いないところ。問題はお店の名前が書いてないことですが、秋庭太郎氏は緻密さを極めた調査によりそれは「アリゾナ」であると断定されており、それが定説となっているのです。

ところがこの定説に疑問を提起する事件が起こりました。実に映画監督の大御所新藤兼人が平成4年になって発表したものですが、荷風が浅草で最後に食事をしたのは「アリゾナ」ではなく蕎麦屋の「尾張屋本店」ではなかったかという疑問です(『老人読書日記』にも書かれています)。当時荷風を追いかけ回していたアマチュア写真家井沢昭彦氏や尾張屋の女主人の証言にとても現実感があり、荷風ファンの間に大きな衝撃を与えました。それを読んだ荷風研究家の松本哉氏はさっそく写真家の井沢昭彦氏や尾張屋の女主人に会われ、荷風が死ぬ一ヶ月ぐらい前に尾張屋でかしわ南蛮を食べてトイレでしりもちをついたとの重要証言を確認され、(新藤兼人氏は)「アリゾナを必ずしも無視しているわけではないが、尾張屋のトイレに何か真実の匂いを嗅ぎつけているのである」と新藤兼人説を支持されているのです(『永井荷風のひとり暮らし』)。

でも昭和34年の春先の出来事であり、今となっては確かめようがないところです。その後、樋口修吉氏もこの件についてアリゾナの主人に再度インタビューするなど確認されていますが「そんな本家争いのような論争をしても何も生み出さないと悟りきっている」アリゾナ主人の態度を紹介され、結論は出して居られません(「荷風と東京の戦後」(東京人1998/9)。白黒つけるのも野暮という気もいたします。

でも散人が一つどうしても納得がいかなかったことがあります。それが気になって仕方がなかったのですが、それは尾張屋の「かしわ南蛮」の量なのです。一度お食べになったら分かると思いますが、とても上品な盛りつけで、はっきり言って小生には少なかった。大食いの荷風が果たしてこれで満足したのだろうかと言うことです。荷風はアリゾナでは毎日、「タイシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続くと、今度はチキンとレバーの煮込みとカレーライス、そしてビール大瓶」を食べていたのですから(樋口修吉)、かしわ南蛮とは落差がありすぎる。でも荷風がほぼ毎日のように尾張屋でかしわ南蛮を食べていたことは、実際写真まであり、全く間違いのないところです。どう考えればいいのでしょうか。晩年は食が細くなったのかも知れませんが、それでも浅草通いを止めた後も、毎日近所の大衆食堂「大黒家」ではカツ丼と日本酒を食べています(あそこのカツ丼は結構ボリュームあって小生でも食べきれなかったぐらいです)。

アームチェアーに座っていろいろ書物を読みながら考えていたのですが、ある日突然重要な事実に気が付きました。松本哉氏が聞いた尾張屋女将の証言では、荷風は「毎日毎日、夏も冬も、昼過ぎにお見えになった」と述べられている点です。荷風はもっと早く朝昼兼の食事をとっていたのではなかったか? 樋口修吉は、荷風がアリゾナに顔を出すのは毎日11時半頃、時には11時前にやってきたという証言を得ています。アリゾナには昼前、尾張屋には昼過ぎと言うことなのです。荷風は食堂のハシゴをしていたのだ! 新藤兼人は写真家井沢昭彦氏の言として「荷風はアリゾナ食堂にはいる。外で待っているとまもなく出てくる。・・・荷風は逃げるように雷門を過ぎて田原町方面に行く。そして尾張屋に入った」と引用されているではないですか。このとき新藤兼人は荷風がアリゾナに入ったのは一時避難のためだろうとされていますが、そうではなくちゃんと食事をするために入ったと考えれば、すべて説明が付く。

さて昭和34年3月1日の荷風の足どりを再現してみましょう。こういうことじゃないでしょうか。

1)まず正午前(11時半)に荷風はいつも通りアリゾナにはいる。そこで食事をする。
2)食事の後、アリゾナを出る時に転倒。主人の介抱を断り荷風は大通りの方に遅々と歩いてゆく。
3)荷風は依然として遅々とした足どりで、いつも通り雷門から田原町方面に向かい、尾張屋本店にたどり着く。そこでデザートがわりにかしわ南蛮を食べる。
4)かしわ南蛮を食べた後、トイレに入って尻餅。尾張屋主人に助けられる。
5)大通りでタクシーを拾って八幡に帰る。

これでほぼすべての証言と矛盾しないこととなります。アリゾナ主人が荷風に大通りまでは付いては行かなかったが後ろからタクシーに乗るのを見たと証言していることだけが、ちょっと気になる点ですが、主人の記憶違いなのか、或いは荷風はタクシーで尾張屋まで乗り付けたと考えればいいでしょう。

荷風は頑固で執着する性格であり、神社のお神籤を引いても大吉が出るまで何度も引いたといわれています。普通アリゾナで転倒したらそのまま家に帰るものなのでしょうが、いつもの習慣に固執して尾張屋にまわったのでしょう。或いはひっくり返ったまま家に帰れば験が悪いと考えたのかも知れません。とにかく同じ日に二回も連続して無様な格好をさらしたことで、さすがに格好が悪いと思ったのでしょう。それ以来、荷風は二度と浅草には行かず、以後、近所の大黒家で甘いカツ丼を食べることになるのです。

2003年2月6日木曜日

Le Monde : バルバラの教えを聴こう

2003.2.6
死後5年、バルバラの歌が大いに注目され、売れ続けているとのこと。もうちょっと低音だったらもっと良いと思うんだけれど、これは趣味の問題で、深く訴えるものがある偉大な歌手ですね。
 


Ecouter la leçon de Barbara (2003.2.6)
バルバラの教えを聴こう


セルジュ・ウローが、この政治的関心の高く、傷ついた一人の歌手の人生を舞台化した。死後5年経って、彼女の歌はいまだに世の中に感動を与える。

バルバラは1997年11月24日、パリで死んだ。呼吸器系と消化系の炎症であった。67歳だった。彼女は死に、その前も90年代に入っては疲れ切って喉を痛めていたが、そのことは彼女がいまだにアイドル的な存在であることには少しも影響していない。今日、彼女の歌は、故ブレルやブラッサンスのものよりも多く歌われているのである。

彼女のサイト(lesamisdebarbara.free.fr)ではバルバラの友人達が彼女に関するすべての事柄を公開している。ダミア、イヴォンヌ・ジョルジュ、エディット・ピアフ、マリアンヌ・オズワルドから彼女に繋がるそうそうたる系譜図まで掲げている。セルジュ・ウローは彼の新しい芝居にバルバラを扱う。「お上品な文化はシャンソンを嫌う。なぜならシャンソンは直接的だからだ」とこの喜劇役者は言う。

彼女はいつも黒い服を着て熱狂的なファンを集めた。晩年は四方を壁に囲まれた庭のある修道院風の引きこもった。死後5年経った今、なぜバルバラの教訓的な歌を聴かねばならないのか? どうして今でもこのアンチ・ポップのスターはこれほどまでに人気があるのか? まずフランスのシャンソンは長い歴史があることを挙げねばならない。黒い服に身を固めたバルバラは昔から体験されたシャンソンを代表する宗教的存在であるのだ。

そう「体験されたシャンソン」なのだ。彼女は惨めさを歌い、よろこびを歌い、時代を歌う。彼女は有名な人気歌手ではあったが同時に政治的参加をする歌手でもあった。平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあり、ミッテランの支持者でもあった。でもバルバラは代弁者、先人の意向を巧みに伝える人として仕事を始めていることが重要だ。1950年代には、彼女はピアフの歌をなぞりながら作詞しているのだ。

バルバラは激しく仕事をして、膨大なレパートリーを増やした。レオン・サンロフ、アンリ・フラグソン、モーリス・キュヴリエ、ポール・マリニエなどの歌である。若い作詞家の歌も多く歌った。ジャック・ブレル、ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、モーリス・ヴァダラン、ルネ・レヴェックなどだ。1960年には「バルバラ、ブラッサンスを歌う」でグランプリを獲得している。次にブレルの歌で。

1958年には78回転や、45回転のレコードからはじめ、以来多くの歌を発表する。

若い世代がバルバラから学ぶことの第一のものは、彼女の歌は決してゼロから作り上げたものではなく、ベースにあるしっかりした芸術的文化の上に作り上げられたものだということである。バルバラが古い歌を歌う時、それは決して世代を超える共感を求めてではなく、彼女の歌に対する愛と博識がそうさせているのである。

「世に認められない才能なぞはない」とバルバラは1981年インタビューで語った。「無理をしてデビューしようと苦しんだりせよと言うことではなく、うちに秘められた才能がないのに努力してもしようがないということ。これは宗教みたいなものでなければいけない。私より歌のうまい人はいるが、歌で人に何かを与えなければ意味がない」と。彼女は霊的なまでに魅惑的で、いろいろな伝説の持ち主であるが、一つ確かなことは、彼女は、彼女自身も、くるしみも悲嘆も、惜しみなく人に与えたということである。

心理学者がいうように、彼女は悲惨な状況を大きく強調し、何とかしようとする独特の素質に優れていた。日常的なことを取り上げ、差別の問題と戦った。ラシズムとも戦った。薬害エイズ問題とも戦った。

彼女は、長く内に隠していた自分自身の秘密も、徐々に語るようになる。ユダヤ人でありナチの恐怖におびえたこと、幼い時に父親に強姦されたこと、戦争のこと等々。

彼女の歌を聴く時、人はジェノサイドと火葬を思い起こすことになる。三年がかりで作詞した幼年期の心の傷を訴える歌もある。

バルバラは今、シルヴィー・ヴァルタンなどのアメリカン・ロックと共に若い世代に受け入れられている。しかしバルバラはそこに留まるものではない。彼女の歌は、トゥストやヌーベルバーグのMGの軽薄さに、青春に生きるくるしみ、愛が成就できないロマンチックな悲劇的なものと映る10代のくるしみを付け加えるものだ。若者の通過儀礼でもある。彼女の苦しみに満ちた人生は、彼女が訴える一枚板ではない多様な希望を抱く「若者達」に常に支持されるのである。

Véronique Mortaigne

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.02.03


2003年2月5日水曜日

瑛子姉のこと

余丁町散人、2003.2.5


一番上の姉、服部(橋本)瑛子姉が亡くなってからちょうど5年になる。1998年2月5日、木曜日夜9時頃電話で連絡を受けた。その前の日曜日に名古屋に見舞いに行ったばかりだった。見舞いに行った時は、まだ意識もはっきりしており、2時間ばかり話が出来た。手を握ると「とても暖かい」と言って放さず、ずっと握り続けていた。

瑛子姉が生まれたのは、昭和8年11月16日、父幸次は25歳、母寿賀は18歳の時だった。その年の2月、日本は国際連盟を脱退。世界恐慌のさなか、日本は軍国主義で破滅に向かって突き進んでいる時ではあったが、父は独立したばかりであったし、大阪の下町での新婚家庭はそれなりに楽しかったようだ。空襲の激化と共に一家は西宮の別宅に疎開。そこで終戦を迎える。瑛子姉は11歳だった。翌年末っ子の尚幸が生まれ、瑛子姉はたまたま近所にある学校と言うことで、神戸女学院中等部に入学。以来昭和31年神戸女学院大学英文科を卒業するまで同じ学校にいた。神戸女学院は阪神間ではピカイチの才媛学校であるが、当初はそういう意識で入学したのではなく、あくまでも近くにあったからというのが理由だったと聞いた。下の二人の姉も全く同じコースを歩むこととなる。

この神戸女学院という学校は、アメリカのミッションスクールでもあり、学生も阪神間の比較的裕福な家庭の娘が多く、一般の公立学校とは相当雰囲気が異なった。当時から、土曜日は休日、日曜日には礼拝があり、服装も制服はなく私服だった。思春期の女子学生は無理をしてでも服装で自己主張をし、毎日同じ服で登校するとちょっと引け目を感じるような雰囲気だったらしい。大阪からやって来たばかりの両親にはそのへんが理解できず、瑛子姉は父親が職業柄入手した「上等の」羅紗で作ったセーラー服で通学した。セーラー服で通学した質実剛健な生徒は、終戦直後の当時でも学年で瑛子姉ともう一人いただけだったと瑛子姉は言っていた。その他、ミッションスクールの特別のルールがいろいろあり、富山県と和歌山県生まれの両親には理解できない点が多かったようで、間に立った瑛子姉はそうとう苦労したようだ。

瑛子姉は努力家でしかも抜群の秀才だった。兄姉の中では一番IQが高かった。数学パズルとかが好きで、読む本の量も半端じゃなかった。漱石全集を自分の小遣いで買いそろえたり、ディッケンズなどの英文学はたいてい翻訳で買いそろえていた。私が小さい時に読んだ本の多くは瑛子姉の買ったものであり、今でも私がフランス文学より英文学に親近感を覚えるのは、その影響なのであろう。ピアノはほとんどプロ級で、ラジオにも出演した。家のピアノがボロだと言うことが彼女の悩みでもあり、またこれで両親ともめた。卒業後、当時としては珍しく職業婦人となり(財)関西経済連盟で事務の仕事をした。非常に有能な人だったが、女性の社会的地位は当時はまだまだ低く、学生時代には家庭と学校の文化ギャップの問題もあり、とてもストレスが高かったように見えた。結婚したのは私が12歳の時だったが、そこで素晴らしい家族に恵まれることとなり、瑛子姉は一転して、目に見えて温和になった。彼女にとって服部奎吾氏との結婚は生涯で最良の選択であったと思う。彼女はとても幸せな生活を送ることになる。

私は彼女とは年も離れておったこともあり、直接的な関係よりもむしろ間接的なつながりが大きいと思う。彼女の蔵書で人格を形成したと言っていいし、最近まで瑛子姉が卒論を書く時に使っていたヘルメスのタイプライターを使用していた。今使っている英英辞書も瑛子姉のオックスフォード・コンサイスだ。彼女の1953年付の署名が入っている。

5年前、最後に瑛子姉を見舞った時、広島に瑛子姉を訪問した時の話などをしたが、彼女は「新婚時代、特に広島で生活していた時が一番幸せだった」といった。この「一番」という言葉に引っかかったが、或いは単に「とても」という意味だったのかも知れない。別れ際に「尚幸は、もっと痩せなければいけない」と過体重を注意された。

以来節制して少しだけだが体重を減らしている。


〔注〕瑛子姉:服部瑛子(旧姓橋本)1933.11.16 - 1998.2.5

2003年2月4日火曜日

Le Monde : 経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

2003.2.4
「左のルモンド」の面目躍如という論説です。非常に基本的な命題について、敵ながらあっぱれと言えるぐらい、鋭い指摘です。経済社会で人は何のために働き、経済は何のために豊かになるのか。手段を求めて目的をないがしろにしてはいけないと言うもの。経済学的にケチを付けると、動態的(長期的)に考えなければいけないよ、と言うところでしょうが、まあそれまでには死んでしまうと言われればその通りだし・・・。


par Pierre Georges
Patron, travail (2003.2.4)

経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

フランス語というのは、社会交渉に於いては本当に恐るべき言語である。二つの言葉を取り上げてみよう。簡単な、現在までしょちゅう使われている、現在もっとも緊急案件である年金引退問題で頻繁に使われている二つの言葉である。

それは「経営者(パトロン)」と「労働(トラヴァイユ)」という言葉だ。今更言葉の意味や用法について説明する必要がないように見える。経営者(パトロン)とは、現代語では、指導者とか、企業家とか、社長とか、上司とか、職人の間では親方などの意味で使われる。ただ古典的な辞書では、パトロンという言葉はラテン語の「パトロヌス」から來ていて、その語源は「パーテル」といい、「父親」という意味であったと書いてあることについて深く考える必要があろう。「保護者」という感覚と「権威」という感覚が混じったものなのである。

しかし「パトロン」には別の意味もある。忘れかかっている言葉であるが、お菓子作りや絨毯製造で使われる意味で、ちょっと古くさいが、同時に非常に現代的でもある意味だ。「型紙」という意味で使われるのである。尊敬すべき、後に続くべきモデルとしてのパトロン(型紙)である。

さて、今度は労働(トラヴァイユ)に移ろう。すべての辞書の編者はこの労働という言葉の説明に多大の労力をかけている。どの辞書でも、労働という言葉は、ラテン語の「トリパリウム」という恐るべき拷問器具から発した、苦痛と呻きの意味を強く持つ言葉であると説明している。用法として、中世ではこの言葉が拷問という意味で使われたとか、近代においても徒弟達がヴァイオリン製作に苦しい労働をするとか、オペラ座では踊り子達が踊って死ぬほど疲れるとかである。

笑ってはいけない。今は深刻な時期なのである。現在繰り広げられている政府と労働組合の間での年金・退職問題での議論を聞くと、この辞書の言葉の定義の重要性が分かる。もし経営者(パトロン)が、字引にあるように聖人アイコンではなく、人間性からの尊敬されず、権威もなく、模範ともならないとしたらどうだろうか。パトロンが規範とするべきモデルからかけ離れていたとしたらどうだろうか。もし、いつもいつも「もっと働け、もっと長く働け、さもないとえらいことになるぞ」と繰り返すだけで、そのえらいことと言うのが労働者にとってのえらいことなのに、労働の価値を貶めることばかり言っていたら、誰も聞く耳を持たないではないか。社会計画とか企業の大規模な再配置とかいって、労働(トラヴァイユ)の尊敬すべき価値を地に落とし、それに付属して労働時間と労働期間を長くしろと言うばかりでは、いったいどうなるのか。

語源学は恐るべきぐらいに頑固である。どんな辞書にも労働とその価値と美徳について、それはそれは偉大なものだと書いてある。いまの時代は、価値という言葉を使う場合、株式市場の価値というだけで労働の価値を無視している。それがすべてのぎくしゃくをよんでいる。労働(トラヴァイユ)という言葉の意味の切り下げが進んだことが悪い。

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 04.02.03

2003年1月29日水曜日

Le Monde : 料理への愛着状況

2003.1.29
美食の国フランスにおいても家庭では手抜き料理が横行しているとのリポート。悲しいですね。亭主が自分で作ればいいのでしょうが、あまり台所にしゃしゃり出るのも良くないし・・・、時代の変化に自分を合わせるしかないのかな。

 
Etats d'âme en cuisine (2003.1.29)

料理への愛着状況


専門家は、20才から35才の女性の間で、一種の「料理ノウハウの欠落現象」が見られるという。

「料理をするのは私は大嫌い。おいしいものを食べたりお招きをしたりするのは好きなんだけれど、台所に立つと考えただけで厭になるわ。だから高いお金を出して出来上がったお総菜を買ったり料理の宅配を頼むの。ごめんけど、買い物は嫌いだし、台所で3時間もかけてお料理を作るなんて、絶対にいや」

32才のマチルドさんは、このように料理が出来ないことを、彼女のお母さんとは違って、隠そうともしない。彼女だけの特別のケースだろうか? そうでもないようだ。栄養摂取学の専門家は最近20才から35才までの大都市の勤労女性の間で。一種の「料理ノウハウ欠落現象」がみられはじめていることに注目している。女性はそのようになっているのは、疑いもなく、結婚したカップルの間で、男性は依然として食事の支度にはほとんど関与していないからだそうだ。男性は、たまに週末、みんなの受けを狙って料理を見せびらかすぐらいで、その時ですら後片付けはしない。

一方で、同じような驚くような研究がある。国立経済研究所が最近発表した研究は、週末の豪華食事がえらく流行っていることを強調している。料理学校や料理雑誌が売れているというのだ。しかし、それでもパスタを冷水から茹でるようなことをする料理下手の女性は想像以上に多いのだ。料理嫌いの女性は非常な数に上るようだ。クレドック研究所の専門家は「フランスにおいて、料理の仕方を知らないとなかなか白状できないので(格好悪いと思われているので本当のことは言わないので)調査は簡単ではないが、グループテストなんかで特別の調査をすると明らかに女性の間で料理技術の低下が見られる」という。

「遡って原因を考えれば、世代間の技術移転の断絶がある。料理に興味がない女性は1968年5月世代の母親の子供である」と社会学者は言う。60年代の後半、当時30歳以下の女性は、母親から料理のやり方を教わることを、古くさい女性蔑視に繋がる習慣だとして拒絶したのである。彼女たちが年をとるにつれ、彼女達は昔の料理の良さを再発見することとなったが、ずっと長い間、料理書などは女性解放の妨げとなると信じてきたので、いまさら自分たちの娘に煩雑なスフレの作り方などを教えようとはしないのである。

「若い女性達には、自分たちの母親が何も教えてくれなかったと怒りを表したり母親を責めたりする人たちもいる。でも自分たちで勉強して遅まきながらも料理をうまくなりたいとの気持ちはあり習い始めている。作り方を知らない異国料理の影響もある」と別の研究所の所長は言う。だったら安心だ。

フランスの美食の名声が傷ついていうのはこればかりではない。フランスにおいて、どうも「食」と言うことがかなり複雑になっているようだ。矛盾した現象が見られる。「老年世代は別として、いまフランスにおいては「食べ物の用意」というのと「料理する」と言うことが区別されるようになっている」という。週末には豪華な食事を用意するが忙しいウィークデイは簡単な出来合いのもので済ますというやり方だ。女性の仕事という一般的な風潮のなか、都市生活スタイルの発展したのに男女間の分業が進展しないことで女性に過大な負担がかかっている。食事の準備にかける平均時間は、1988年から2000年にかけて、42分から36分に減少した。電子レンジで冷凍食品を温めたり宅配ピザを利用したりする人が増加したのだ。(宅配ピザの利用者は1995年に5%だったものが、2000年には9%に達した)

冷凍食品メーカーなどでメニューの種類を増やす努力をしているのだが、この(いいかげんなもので済ますという)悪い傾向は変わらない。米国では、フランスのように食文化は進んでいないが、家庭の主婦はエプロンを返上しかけている。ある調査期間の調査では、米国人主婦の半数は、特に若い世代では、凝った夕食を作るのに時間をかけることはとても出来ないと宣言しているとのこと。また三分の二の主婦が「食事準備の手間を省く方法」を探しているとのこと。

フランスにおいて、乳業情報センターが長年研究してきたが、三分の一の成人は、特に女性と若い世代は、料理を作ることは「厭な仕事」とか「義務的な仕事」と考えている。特にフランス北部と西部において顕著である。この二つの地方は体重過多が顕著に見られる地域だ。この料理嫌いの傾向に食品産業は懸念を示している。だから販売する商品も一時は「ちょっと手を加えれば出来上がり」というタイプのものから、今や「超簡単。豪華要理出来上がりパック」が主流になりつつある。「料理がいつまで経っても女性の責任とされているのに、女性はますます忙しくなってきており、特にウィークデイの夕食はこんなものが好まれる」と食品メーカーの販売責任者は言う。彼は続けて「お母さんを責めるのではなくお母さんの責任を輕くしてあげることが大切である。夕食と言うものは料理の質で判断されるものではなく、主婦が如何に夕食の暖かい雰囲気を作ったかで判断されるべきものだ」と強調する。「夕食の暖かい雰囲気」というのは電子レンジで温められるものかしらね?

Jean-Michel Normand

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 29.01.03 

2003年1月18日土曜日

〔再録〕靖国神社問題のボタンのかけ間違い

旧HPから再録。これも面白い:


2003.1.18例によって小泉首相が靖国神社を参拝し、それに対して近隣諸国が抗議をしている。もう慣れっこになってしまったような、いつもの繰り返し劇だが、このまま放っておいても事態は良くならないだろう。むしろ逆で、度重なることで、国内的にも国外的にも、対立と亀裂が深まっていくような気がする。もはや主義主張による議論ではなく、現実的な打開策を求めて、みんなの知恵を出し合わねばならない時にきていると思う。

問題の所在を吟味してみよう。日本の総理大臣による靖国神社参拝は、今に始まったことではない。総理大臣の公式参拝は、GHQによる管理のもとで昭和26(1951)年に吉田首相によって始められ、以来歴代の多くの首相は靖国神社を参拝している。これは国内的な問題とはなったが、近隣諸国からは特に問題とはされず国際問題とはならなかった。なぜ今になって先鋭化した国際問題となっているのか。これはひとえに、昭和53(1978)年に、どさくさ紛れに行われたA級戦犯の合祀にある。これが問題に火を付けた(もしくは火を付ける口実を与えた)のである。

これは見かけ以上に大きな意味を包含する問題である。敗戦処理の根本理念に関する問題であるからだ。日本は戦争に負けた以上、その行為に対する国際的な責任をとらねばならないのは当然であった。同じく戦争に負けたドイツも事情は同じ。ところが、ドイツと日本では敗戦責任の整理の仕方が大きく異なった。ドイツではドイツが行った戦争の非を認めたが、その責任を全てナチス党にいわば押しつけるやり方をとった。「ナチスは非道いことをやった。万死に値する。でもドイツ国民は騙されていたのだ」という整理である。ドイツは率先してナチスを糾弾し、今もナチス残党に対する追求の手をゆるめていない。本当はドイツ人の多くは戦争に積極的に荷担したとしても、自分の非を全てナチスに被せたのである。これを欺瞞ととる人もいるが、ドイツ人一人一人の内なるナチス的なるものへの厳しい自己反省がベースにあり、己に鞭打つ姿勢と理解すべきであろう。その結果、ドイツ人は自国に誇りを持つことが可能となり、過去のことを言われても自分のことを非難されているとは感じずにすむようになり、正当化する必要性も感じないので屁理屈はこねず、近隣諸国の間に多くの友人を作り上げることが出来た。

それに対して日本では、形式的には戦争犯罪人は戦争の責任を背負った形とはなったが、実質的には「一億総懺悔」であり、いわば国民の連帯責任とされた。全員が責任を持つとは聞こえが良いが、結局は誰も責任をとらないと言う無責任なかたちでの整理であった。それが戦犯への同情を生み、日本人一人一人の中に内なる軍国主義と偏狭なナショナリズムを残存させ、個人と戦前の日本を一体化して考える傾向を生み、自己の尊厳を守りたいという人間固有の本能が、即、戦前日本の行動を正当化したいという無理筋の願望に結びついたように思われる。これが自分たち全員の責任をとらされたとして戦犯に対する罪の意識を生み、安易なA級戦犯の靖国神社への合祀につながった。

宗教団体である靖国神社が何を祭ろうとそれは彼等の勝手であるが、昭和53年の段階で、国際的な戦争犯罪者であるA級戦犯が神社に祭られた以上、国を代表する総理大臣が参拝するべきではなかった。1985年に、中曽根首相が、中曽根首相の言葉を借りれば「その時点でA級戦犯が合祀されているとは知らずに」靖国参拝をしたが、たちどころにそれは中国に日本非難の口実を与えることとなった。それはヒトラーの墓をドイツ首相が参拝することと国際的には同じことであり、戦後の平和条約の精神を自ら否定するものであり、理屈は明らかにそれを非難する近隣諸国にあった。ところが国内的にはこのことが内政干渉と受け取られ、偏狭なナショナリズムに火を付けてしまった。逆に靖国参拝をやめることが国内政治的に不可能になってしまったのだ。日本の首相は道理に合わない靖国参拝を続けざるを得ず、日本は国際交渉上の大きな弱みを握られてしまうこととなった。日本は将来に渡って、外交上のハンディキャップを背負うこととなり、国益を大きく損なってしまったのである。

現実的な解決策はないものか。国内のナショナリスティックな感情の高まりを考えれば、首相は何らかの遺族会サービスを続けざるを得ない。靖国に祭られるのは「名誉」であるという遺族の感覚を考えれば、千鳥ヶ淵戦没者墓地への参拝で代替させうる問題ではない。中国と韓国の民衆の間でのナショナリズムは高まる一方であり、これだけこじらせた後で外交的に理解を求めるというのは無理があろう。一番合理的な解決方法は、合祀されたA級戦犯を再びどこかへ移転させることだろうが、現在の国内ナショナリズムの高まりを考えれば、これまた感情的な反発を呼び起こすことになろう。それに神社側は合祀された魂は「一つの岩のように」一体化していて、技術的に今更戦犯分だけを抽出できないと主張している。職人が横になっては合祀も分祀も不可能だ。首相が参拝するたびに「拝礼は戦犯の方を除く」と宣言するのも一案だが、あまり迫力がないし、なんだか馬鹿げている。

一つの奇策ではあるが、「日本武人英雄殿堂」の新しく創立するのはどうであろうか。明治維新以来、第二次大戦までの軍人・軍属の英霊のみならず、戊辰戦争での幕府側の死者の霊、西郷隆盛を始めとする西南戦争の薩摩側の死者の霊、遡っては源頼朝から北条時宗などの日本国の成立に貢献し対外戦争で戦った歴代の武人を一堂に祭る。しかし神道とはせずに靖国神社がもとの招魂社の時代にそうであったように軍人(自衛隊)がこれを管理するかたちをとる。もちろんA級戦犯は入れない。日本版の「アンヴァリッド(廃兵院)」もしくは「パンテオン」である。首相はここに堂々と毎年、国家行事として参拝する。日本国の総理大臣として日本のために戦った過去の軍人と武人に最大限の敬意を表するのである。外国では当たり前のことであり、国際的に問題となるはずもない。遺族会も、自衛隊員も、軍国主義者も、社会主義者も、共産党員も、グローバリストも、会津の人も、薩摩の人も、一部の神道信者を除き国民のほとんどが満足するやり方ではないか。

靖国神社は靖国神社で信仰の自由はあるので従来通りやっていただく。好きな人だけが行けばよいのである。

2003年1月12日日曜日

Le Monde : 今日に於いては、金持ちを優遇せねばならない

2003.1.12
ヨーロッパ・モデルとアメリカ・モデルを、架空の手紙のやりとりで解説しています。けっこう面白い。アメリカ・モデルは経済的には成功するかも知れないが、中流階級を分裂させることで社会を不安定化に繋がり、民主主義の観点からは受け入れられないとい言うもの。でもこれを読んで、日本の反グローバリストが元気づけられても困ります。日本の経済的蓄積と民主主義はまだまだ一周遅れなのですから、ヨーロッパの立場からの対米批判をそのまま借りることは出来ないと思います。

par Eric Le Boucher
Aujourd'hui, il faut aider les riches
CHRONIQUE DE L'ÉCONOMIE (2003.1.12)

今日に於いては、金持ちを優遇せねばならない
ルモンド解説記事


きのう、ワシントン政府に勤める友人のエコノミストからこんな手紙を貰った。読んであげます。

「ヨーロッパ人は、いつになったら弱者や負傷者や貧者を恒に助けなければならないと言う、古くさい道徳を捨て去るのですか? いや、貴方が個人的にそういう人たちに同情や憐憫の気持ちを持つことは貴方の勝手ですが、公共政策としては、この費用がかかる傾向にある政策を打ち砕かねばなりません。近代経済に於いては、全く別の方法でその問題に対処しなければならないと言うことに、そろそろ気が付かれても良いのじゃないでしょうか。金持ちを優遇するのです! はい「金持ちを」です! 政府は彼等を支えて、彼等に気を配り、相当の所得税減税をしなければならないのです。効率と言うことを一度考えてください。今日に於いては、資本家階級こそが、投資をし、技術革新を行い、リスクを取り、経済成長を高めるの人たちなのです。そしてその結果もたらされる経済成長は力強いものであり、社会全体が、貧乏人も含めて、そのおこぼれに授かるのです。パンくずみたいな、金持ちの食べ残しにしか過ぎないとおっしゃるのですか? 現実的になりましょう。確かに「食べ残し」かも知れませんし、それについては誰も否定はしないのですが、その「食べ残し」は、現在ヨーロッパがしつこく維持しようとしている弱者救済政策により貧乏人が受け取る金額よりも大きいのです。何が何でも生活窮乏者を助けようと言う政策が、貧乏人を含めて全ての国民を豊かにするところの、力強い経済成長を妨げているのです。

弱体化するヨーロッパ


米国を見てください。ロナルド・レーガンによる所得税減税と「世襲財産」資本主義の採用が、保守革命を起こし、富の分配において歴史的な大変化をもたらしました。1930年代からの不平等を食い止めようとする政策が中止されたことで、その偏差の調整を見越した大ブームが起こったのです。はい。そうして、1980年代には、全ての側面で危機に直面していたこの国は、現在、ご存じのハイパーパワーとなったのです。ソ連のマルクス主義は死にました。計画主義の日本は非道く窮地に陥っています。社会民主主義のヨーロッパは停滞しています。米国は何千万もの新しい質の高い雇用を作りだし、失業をやっつけました。アメリカは研究開発に巨大な投資をし、先端技術の全てを抑え、地球上の最良の芸術家、スポーツマン、学者を独占しているのです。

貧困問題ですって? それについて話しましょう。貴方も同意いただけると思いますが、この問題の最良の解決方法は、補助金をばらまくことではなく、生産性の上昇を通じても雇用の増大と賃金の上昇なのです。これが米国で起こったことです。結果は、1990年には15%であった貧困層の比率が2001年には12%に低下しました。始めて黒人の失業率が10%を切りました。貧困問題とは、相対的な問題です。エコノミストのダニエル・コーヘンがルモンドにも寄稿したように、ヨーロッパの平均的富裕度は、一時米国との差を縮めましたが、この20年でまた再び差が開いています。別の言い方をすれば、政府の補助が受けられない米国人である方が、政府の補助を受けるヨーロッパ人より、よっぽど豊かだと言うことです・・・。

ブッシュの計画


納得しましたか? あなた達は、我々米国人のやり方に従う方が賢いです。米国はもっともっとこれを続けますから。ブッシュ大統領が発表した「雇用拡大」を目指す新計画で、アメリカは更に有利になります。ああ、言いたいことは分かります。アーバン研究所が言っている、ブッシュが今後10年で使う6470億ドルの内42%がアメリカ人の上位1%の最富裕層のために使われるということを仰りたいのでしょう。年に100万ドル以上の収入がある家計では32000ドルの得となるに対して、年収21000ドルの独身世帯では47ドルしか得にならないと言うことを仰りたいのでしょう。また、ブッシュ計画の目玉である配当金に対する課税全廃は、貯金を年金積み立てに回している普通の人たちにとっては何のメリットもないと仰りたいんでしょう。OK、OK。まさにその通りなのですが、このブッシュ計画は、株式相場の急落や戦争の可能性で不透明な経済状況の中で、投資家を元気づけるものなのです。我々はこの計画でもって投資と貯蓄を刺激するのです。過剰消費に陥っている米国経済にとって、これは今まで為されていなかったことで、必要なことなのです。簡単に言えば、この計画は経済を飛躍させ、ヨーロッパの経済成長率より高い1.5%と言う成長率を可能にするものなのです。やっと分かりましたか。先行している人間のやることをすごさを認めなさい。ヨーロッパの古くさい平等主義はヨーロッパの衰退をもたらします。」

民主主義

これに対して私は次のように返事を書いた:

「さあ、どうでしょうか。ブッシュ計画について一番事情に通じている人の反応を読む限り、この計画が成長率を高めるという目的を達成できるかどうかよく分かりません。もっと別の方法、企業や貯蓄に対する直接的な助成の方が良いように思えます。しかし結果は見てみないと分かりません。もっと基本的なことを指摘したいと思います。不平等は、基本的に技術革新によって牽引されている経済にとって、ダイナミズムの要素となりうるのでしょうか? それが米国がヨーロッパと距離を置く理由でしょうか? トム君、失業率は、ヨーロッパに於いてもスエーデンとかオランダなど、不平等主義を取らず逆に平等主義を取っている国で、アメリカ以上に改善を示しているのです。もっとも、アメリカの方が成長率が高いことは認めますし、アメリカ経済が現に力を取り戻した事実は、仰っていることを全く否定するわけにはいかなくしていることも認めます。これはまさに、われわれが平等とダイナミズムをヨーロッパ的なやり方で融合させようとして「ヨーロッパ・モデル」の再考を考えている目的(理由)でもあるわけです。我々は成金ではありません。成金とはかけ離れています。それは事実です。

しかし、あなた方の将来はそれほどバラ色だとは思いません。アメリカは新しい階級闘争を作り出しています。三つの階級、すなわち貧困層、中流層、スーパー富裕層です。問題は、富裕層がもっともっと豊かになると言うことではありません。貧困層の存在も新しいことではありません。問題は、中流層にあるのです。中流層は分裂を始めており、大多数の中流層は、資格形成の不足か個人的な自信の欠如のため消極的になっており、競争や彼等に押しつけられた不安定な状況を拒否するようになっています。将来に対する信念のおかげでアメリカはヨーロッパより長くこういうことを続けられるでしょう。しかしあなた方アメリカのモデルは不安定なのです。私は政治と民主主義について話しておるので、道徳のことを言っているのではありません。」

Eric Le Boucher

ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 12.01.03

2003年1月8日水曜日

〔再録〕どうして<省事>ができない?


旧HPより:

2003.1.8 視点「どうして<省事>ができない?」



会社を退職してからしばらく経ったある日、退職仲間の数人で集まろうとしたことがある。いずれも悠々自適を楽しんでいる人たちであり、みな暇なはずで翌日にでもと思ったのだが、日程を調整するのにえらく苦労した。皆さんは何かとお忙しいようなのである。ようやく全員の都合の良い日時が決まったが、それは数週間も先の日取りであった。会社を退職すると手帳の予定欄が空白になるのは自然なことである。でもそれは一種の恐怖感を人に与えるもののようで、皆さんは、それ展覧会だとか、それ同窓会だとか、パック旅行だとか、何でもかんでも予定表に入れてゆかれ、予定欄が埋まるとはじめてほっとされるようなのである。勘ぐるわけではないが、それがまた自慢でもあるご様子。予定表白欄強迫症候群とでも呼ぶべきか。長年の二宮尊徳型の勤勉習慣が、すっかり身に染みついてしまって、常に何かしていないと落ち着かないということになり、何もしないでよいという人類本来の最高の楽しみから退職者を限りなく遠ざけているようなのである。


正月3日の日経新聞に、偉大な経済学者ガルブレイスが「新しい価値観に対応を」と題して日本人は経済や社会の成功の意味、評価の尺度を問い直すべき時だと、余暇を楽しむ生活の幸福度の重要性を強調されている。まことに卓見であるが、一つ付け加えるとすれば、強迫観念に追い立てられて「余暇」から「余暇」へと走り回る生活は、本当の余暇でもないし本当の幸福でもないということをもうちょっと説明しておいてくれた方がよかった。西欧文明に生きるガルブレイスにとっては、これはあまりにも自明のことであり、言わずもがなであったのだろうが、勤勉習慣が染みついた日本人に読ませる論文ではもうちょっと親切心があってもよかったと思う。西欧では、聖書の時代から、労働は苦痛を意味するものとされ、その対極にあるのが、エデンの園での「何もしない生活」であった。ヨーロッパの長い夏の休暇を、砂浜で何もしないで寝て過ごす人々を見て、「何で何もしないのだろう」と訝しげに感ずる日本人が多いのであるが、あれこそがエデンの園の生活の実践であり有閑階級の生活なのである。余暇から余暇へ走り回る生活は貧しい。 

もちろん、何もしない生活が続くと退屈してくる。そこで人は「時間つぶし」を考え、自分で遊びを工夫するのである。それが余暇であり、人は自分の身の丈と能力・素養と趣味に応じた自分だけの余暇活動を自分で工夫するものなのだ。既製品の「余暇」に我先に飛びついたり、「定年後の余暇」とか言うハウツー本を読んで真似をするものではないだろう。古来から遊びとか文化とか創造はこのようにして生まれてきたものだ。人口の高齢化が進み、今後定年退職者層という「有閑階級」が増える日本に於いては、文化とか芸術、更に創造的な発明などが期待できてもよいはずなのであるが、このように「何かやっていないと気が済まない」症候群に取り付かれた人たちばかりだと、それすら望むべくもないだろう。 

これは実社会で活動している現役にも当てはまるように思える。企業組織で働く多くのサラリーマン諸兄も、この「何かやっていないと気がすまない」症候群に取り付かれていないだろうか。最近どっかの賞を取ったという警察小説『半落ち』(横山秀夫)を読んだが、額面通りではないだろうが、この小説に出てくる有能な警察とか検察の人たちが組織の面子という実に下らないことだけのために多大のエネルギーを浪費して一日24時間働いているいる様には、全くうんざりした。個々の仕事は立派であるが、全体の生産性がきわめて悪いのだ。日本社会全体で「省事」と言う言葉(やらないでも良いことを省くという中国の格言)を思い起こす必要があると、改めて感じた次第である。 

http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/Shiten2003/shiten20030108.html

Posted: Wed - January 8, 2003 at 07:11 AM   Letter from Yochomachi   視点 (Opinion)   Previous  Next   Comments  

2003年1月7日火曜日

〔再録〕荷風と山鳩

2003.1.7


荷風と山鳩

寒い日が続いたかと思うと、日曜日の午後、キジバト(ヤマバト)が一羽余丁町のわが家の庭にやってきました。『断腸亭日乗』を調べるとほぼ同じ時期に荷風も山鳩を観察していることが分かりました。キジバトとは俗に山鳩とも言いますが、学名は Streptopelia orientalis といい、体長約33センチ、体は葡萄色を帯びた灰褐色で、雨覆は黒くて赤褐色と灰色の羽縁があり、頸側には黒と青灰色のうろこ状の斑が在る鳩です(日本野鳥の会)。普通は山地に住んでおりますが厳寒の頃にはあまりの寒さのためか町中にやってきます。余丁町は東京23区でも最も高い位置にあり(戸山公園の箱根山が23区で海抜が一番高いのですが、余丁町もほぼ同じ高さにあります)山鳩も飛んで來やすいのでしょう。荷風はこの山鳩に特別の思い入れがあったようで、『日乗』には大正7年1月7日と昭和11年1月22日の二回に渡り記述があります。いずれの記述も、飛んできた山鳩に自分の寂しい生涯を見立てたり、過ぎ去った過去への郷愁を語るものとなっています。母恒の言葉が具体的に引用されているのは此のくだりだけではないでしょうか。荷風は更に、山鳩を見ることで、唖唖子、鴎外に就いても思い起こしています。厳寒の頃、山から一羽だけでやって来て落ち葉を踏み歩くキジバトに、散人も昔の日本の冬は寒くて寂しかったことを思い出しました。本邦最初の「バード・ウォッチャー」荷風の一側面をご紹介したいと思います。

<断腸亭日乗より引用>

大正7年正月7日。山鳥飛び來たりて庭を歩む。毎年厳冬の頃に至るや山鳩必只一羽わが家の庭に来るなり。いつの頃より来り始めしにや。仏蘭西より帰り來たりし年の冬われは始めてわが母上の、今日はかの山鳩一羽來りたればやがて雪になるべしかの山鳩来るに日には毎年必雪降り出すなりと語らるるを聞きしことあり。されば十年に近き月日を経たり。毎年來たりてとまるべき樹も大方定まりたり。三年前入江子爵に売却せし門内の地所いと広かりし頃には椋の大木にとまりて人無き折を窺ひ地上に下り來たりて餌をあさりぬ。その後は今の入江家との地境になりし檜の植え込み深き間にひそみ庭に下り來たりて散り敷く落ち葉を踏み歩むなり。此の鳩そもそもいづこより飛び来れるや。果たして十年前の鳩なるや。或いは其の形のみ同じくして異なれるものなるや知るよしもなし。されどわれはこの鳥の来るを見れば、殊更にさびしき今の身の上、訳もなく唯なつかしき心地して、ある時は障子細目に引きあけ飽かず打ち眺めることもあり。ある時は暮れ方の寒き庭に下り立ちて米粒麺麭の屑など投げ与ふることあれど決して人に馴れず、わが姿を見るや忽ち羽音鋭く飛び去るなり。世の常の鳩には似ず其の性偏屈にて群れに離れ孤立することを好むものと覚えし。何ぞ我が生涯に似たるの甚だしきや。

昭和11年1月22日。山鳩一羽西向きの窓に茂りし椎の木立の殊に小暗き葉かげを求め、朝の中より昼過ぎるころまで動かず作りしものの如く枝にとまりたり。こは今日初めて心づきしにはあらず、いつの頃よりとも知らず厳寒の空曇りし日に限り折節見るところなり。大久保余丁町の庭にも年々寒さはげしき日一羽の鳩の來りしことはたしか二十年前の日記にしるし置きたり。二十年前のわが身はまことに寂しきものなりけり。されど其のころには鴎外先生も未簀を易へたまはず、日々来往する友には庭後??子あり、雑誌つくりて文字を弄ぶたのしみも猶失われざりき。二十年後の今日は時勢も変わり語るべき友もなくなり老いと病の日々身に迫るをおぼゆるのみ。この日薄く晴れて後空くもりしが夜に至りて星影冴えたり。銀座三越に行き食料品を購ひ茶店久辺留に立ち寄ればいつもの諸氏在り。諧語に時の移るを忘れ例の如く夜半家にかへる。

<引用終わり>











20年近くも経っているのに、むかし日記に書いたことを覚えているのは、相当の思い入れです。荷風が好きな動物はほかにどんなものがあったのか、それぞれの動物にどんな思い入れを託していたのか、調べてみると面白いかも。

2002年12月29日日曜日

〔再録〕荷風はどうして時代が読めたのか

2002.12.29


荷風はどうして時代が読めたのか。

荷風を読んでいて感心するのは、文学的才能もさることながら、荷風は実に時代が読めた人だったと言うことです。明治、大正、昭和のそれぞれの時代で、実に洞察力のある情勢判断と予測をしており、今から見るとそのほとんどが正しかったことが分かります。政治経済の勉強なぞしたことがなく、新聞すら満足に読まなかった荷風がどうしてこのような的確な情勢判断をすることが出来たのか、今回はこれを考えてみたいと思います。

もちろん荷風は西洋かぶれで日本の軍人が嫌いでしたから、悪口ばっかり言って、それが結果的に的中したとも言えないことはないでしょうが、それだけではない。例えば、昭和6年11月10日の『日乗』には「つらつら思うに、今日わが国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、けだし武断政治を措きて他道なし」と政党政治の問題を正確に捉えていますし(軍人の方がまだましといっているのは「こんなのだったら猫にやらせた方がまし」と言うぐらいの誇張的表現でしょう)、昭和11年2月14日には「日本現代の禍根は政党政治の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり」と、軍人だけの問題ではなく日本人全体の問題として捉えているのは非常に的確と言わねばなりません。海外情勢にしても、西欧諸国のことを手放しに礼讃したのでもなく、昭和7年10月3日には、「英国は世界到るところに領地を有す。しかるにわが国が満州占領の野心あることを喜ばずは奇怪の至りと言うべきなり」と英国の批判をしたかと思うと「然ると雖も日本人の為すところも亦正しからず」と続けて、当時の世界情勢を実に的確に要約しているのです。経済問題についても昭和18年12月31日に「戦争終局を告ぐるに至る時は、政治は今より猶甚だしく横暴残忍となるべし。必ず、債券を焼き私有財産の取り上げをなさでは止まざるべし」と、戦後の預金封鎖、財産税、超インフレによる資産没収を正確に予測しています。荷風がやった土地株式の売買なども、今から見ても全て絶妙なタイミングでやっており、散人などは足下にも及びません。

何故こんなに先が見通せたのか、理由をいろいろ考えていたのですが、結局、荷風が時代を読めたのはいわゆる「傍目(おかめ)八目」という奴ではないかと思い始めました。「傍目八目」とは将棋を横で見ている見物人は頭に血が上っている当人達より冷静なので八目先が読めるということわざですが、荷風は「当事者」でなかったからこそ情勢が読めたと言うことだと思います。荷風が当時の日本社会につくづく厭気を覚え「江戸戯作者の程度まで身を引き下げよう」と決心したというくだりは「花火」に書いてありますが、この時点(明治44年)で荷風は実社会と距離を置くようになったと言えます。しかし世捨て人のように完全に現世から身を引いたわけではなく、現に東京で世俗的な生活を続ける。この社会との「適当な距離感」こそが荷風をしてたぐいまれなる時代の予言者としたといえるのです。

これは荷風のコスモポリタン的な性格と密接に関係しているようにも思います。本当に不思議なのですが、明治に西欧に渡った森鴎外、夏目漱石、永井荷風を較べてみますと荷風のコスモポリタン的な性格が鮮明になってきます。荷風は西欧に於いて、日本留学生を例外なしに悩ませた「日本人であるということのコンプレックス」を全く感じていなかったようなのです。これは実に不思議です。豪快な森鴎外ですら、ドイツで「鼻くそをほじるのは日本人だけだ」と言われて、ドイツ文献を一生懸命に調べ遂にドイツ人も鼻くそをほじるという記述を見つけて鬼の首を取ったように喜ぶということをしました。これはやはりコンプレックスです。漱石はロンドンの町で自分の姿を鏡に見て言うに言われない劣等感にさいなまれノイローゼになったことは有名な話です。二人とも日本人であると言うことをとても意識して生活をしていた。自分と日本を同一に考えている。当事者の考え方です。ところが荷風についてはそういう話が一切なかった。日本人駐在員の悪口は言うのですが、自分と明らかに距離を置いている。

荷風にはコンプレックスというものがもともと薄かったことがこういう事に繋がったのだろうと思います。ことに西欧コンプレックスは、日本人の場合、過激なナショナリズムに繋がりやすいだけに、荷風がそれを持っていなかったのはとても幸せだったと思います。コンプレックスを持たないことが、荷風をナショナリズムから遠ざけ、コスモポリタンとし、距離を置いた冷静な情勢判断を可能にさせたと言えるでしょう。

このコスモポリタン的な性格は、荷風の場合、小さな弱い存在に対する愛情にも繋がっていると思います。フランスからの帰路、イスタンブールでトルコの旗を見て、同情と感動を覚えるくだりがありますが、あれは弱者への愛情でしょう。捕らえられた台湾土人に対する同情や、韓国、中国に対する惜しみない愛情もそうです。荷風にとっては国籍は関係なかった。『ぼく東綺譚』などの一連の小説でひかげの女たちへの愛おしみも、自分と同じ集団に属していない人たちへの愛情であり、同じコスモポリタン的なものが感じられます。ナショナリスティックな民族主義者達はどうしても自分と同じでないものを排除し憎むという傾向があります。集団に属する組織人もそうです。それらの邪悪な感情は、もとはといえばコンプレックスから來ているように思えてなりません。荷風は、現代日本人の生き方考え方においても、教えてくれるところが多い作家だと感じています。








2002年12月24日火曜日



季節のご挨拶
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余丁町散人

いよいよクリスマスです。その後はお正月。謹んで季節のご挨拶を申しあげます。今年はあまり良い出来事がなく、子供も独立、家内は里帰り、家族ばらばらでの、あまりぱっとしない年末ですが、来年にはまた来年の風が吹くのでしょう。「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」天平宝字三年(759年)の元日、大伴家持が詠んだ万葉集最後の歌です。家持は当時不遇だったにもかかわらず、恨みつらみはない素直な歌です。こういう気持ちで新年を迎えたいと思います。皆様もどうか良いお年をお迎えください。

この樹のように力強く

我が家の2002年

今年の我が家の10大ニュースを考えてみました。

1)まず何と言っても、家内の仕事が認められたことでしょう(フランス国家功労賞シュバリエ)。変な日本人サラリーマンと結婚したばかりに、やりたいこともやれなかった家内とそれを申し訳なく思っていた亭主にとっての何よりのリコグニションでした。

2)猫を飼う。うちにやってきた猫ピカチュウはとても活動的な家族の一員となりました。

3)ホームページを開設。難しいものだと思っていたホームページをアップル社のサービスのおかげで開くことが出来ました。

4)マックを購入。長らくパソコンから遠ざかっていたものですが、HP開設を機会にパソコンと関連機器を新しくし、遊ぶようになりました。

5)暁の就職内定。大学を出てから専門学校に通うなど本人も苦労しておりましたが、ようやく好きな仕事に就くことが決まりました。とてもよかった。
6)「視点コラム」を再開。現役時代に書いていた視点コラムを再開しました。

7)経済の低迷。これを機会に今まで一喜一憂していた経済動向への執着を捨てることとしました。そうすると相当楽になりました。

8)荷風と親しむ。HPに「荷風塾」というサイトを作ったおかげで、荷風について勉強することが増えました。知れば知るほど奥が深い。

9)フランス語の勉強開始。荷風とフランス文学の関係について興味が湧いています。でもその為には大量のフランス語文献が読めないといけないので、手始めの勉強としてルモンド紙を毎日読み、記事翻訳をHPに上げることにしました。

10)今年の1月に始めたHPへの書き込み蓄積作業を12月になってもまだ続けています。一年近くになります。三日坊主の小生にとっては珍しいことです。この調子でうまく行くと自分なりの自分史となるかも知れません。「のんびり、ぼつぼつ、たのしく、まめに」をモットーに来年も続けていきたいと思っております。

新年の抱負
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新年にはいつも大風呂敷を広げるのですが、今年もそれを広げてみます。

1)健康管理。言わずと知れた体重管理と運動です。新年は「質実剛健粗食で体を動かして働く一年」とするのです。毎年同じことを言っているのですが、今年もまた同じ誓いを立てます。

2)お勉強。荷風が読んだフランスの小説評論の類を10年がかりで全部読んでみたいとの野心が湧いてきています。新年はまずオリエンテーションから。文献リストの作成から始めて見たいと思います。フランス語のお勉強はもちろん必要です。

3)気晴らし。「引きこもり」兆候が出ているので、たまには積極的に旅行でもしたいな。面倒くさがらずに。田舎道をゆっくりカブリオーレでドライブ旅行というのも考えてみたいです。


フランスにも行きたいな。下の写真は義父のお墓の前の家内。モンマルトル墓地。

2002年12月19日木曜日

Le Monde : 薔薇の剪定は、今が時期!

2002.12.19
ルモンド紙。きょうは薔薇のお勉強。今ちょうど剪定の時期だそうです。春に買ったツルバラを移植しようかと考えていたところでしたので、苦労して翻訳しました。でも理解できないところもある。薔薇は奥が深そう。

La taille des rosiers, c'est maintenant  ! (2002.12.19)

薔薇の剪定は、今が時期!


「耕すことは成長への参加」、「きょうの仕事の結果は、明日のよろこびに繋がる」、この二つの言葉は、植木鉢の底に、蔦がECの紋章のように丸くからんだ模様飾りに書かれたもので、植木鉢メーカーの長年の宣伝文句です。

トルコがECに参加したいと言っていますが、園芸家に喩えさせれば、この蔦の紋章みたいなものでしょうか。蔦の花言葉は「我は、我のくっつくところで死す(死ぬまでくっつきたい)」というものです。

トルコの山々は、我々の庭の多くの球根植物の原産地です。多くの小灌木も、シャクナゲも。葵も黒海周辺の山々で野生しているもので、古代ギリシャ語では「ポント・ヨクシン」と呼ばれていました。香りが高く棘のある野生の薔薇もトルコが原産です。

さて薔薇についてですが、薔薇は寒い内に剪定しなければなりません。最初の水仙やツバキや黄水仙が咲き出してからでは駄目なのです。

つい数ヶ月前に園芸雑誌のコラムで議論されたことなのですが、どの園芸手引き書にも「薔薇の剪定は3月」と書いてありますが、間違っているのです。それに従ってはいけません。今剪定しなさい。

冬に剪定ばさみを使うのです。薔薇という灌木はきわめて早い時期に成長を始めるからです。薔薇は気温の上昇に対してよりも日照時間が長くなることに対して敏感なのです。なかでも「ルゴサ」種は一番早く、一月末には成長を始め、葉っぱが枯れているのに芽がふくらみ始めます。ずっと太陽の光から遮られてきた修道女のように、非常に速い速度で咲き始めるのです。2月の終わりまでには、家の中に入れていた薔薇を外に出すことで、すっかり大きくなります。

もし、3月に剪定するならば、樹液が既に循環を始めた枝を剪ることとなり、薔薇をして、剪られた下の部分から新たに芽を芽吹かせるという、余分な負担を掛けることになるからです。

もし、今、1月末以前に剪定すると、剪られた枝は、樹液はまだ循環していないもので、薔薇は冬眠中と言うことなのです。穏やかな気候の地域では、薔薇は冬の間でも、半分しか冬眠しない状態で、成長を続けています。今年の秋は、最初雨が降らず、後半になって雨が降ったので、若干開花は遅れるようですが、その分とても綺麗な花となるはず・・・。最近またちょっと寒いので、薔薇はまたちょっと眠りについています。

その機会を利用しましょう。薔薇は大きく分けて二種類に分類できます。年一回しか咲かないタイプと、二回咲き、或いは連続して咲くタイプの薔薇です。前者の場合は、枯れた枝とか、古くなった枝や弱った枝、それに伸びすぎて形を崩した枝などだけを、綺麗に剪定するだけに留めます。

ツタバラは小さな花を咲かせますが、枝や幹は軟らかく支柱に支えられていますが、からんだ枝を調べて、枝の一番先にある花を付けた茎や水平に分岐した枝の先にある茎は取り除きます。これらの茎は芽を付けていないので発芽することはないからです。

花を落とした茎から一番最初にある芽を見つけ、そのすぐ下を剪ります。その下からツルバラは伸びていくからです。枝が、曲がりくねりながら、ほぼ水平に伸びていくように、うまく剪定します。まっすぐに枝をしてしまえば、花は先端に咲くだけです。枝を曲げることで、花が全長に渡ってつくことになります。これがツルバラがよくアーチ型にして栽培される理由です。

伝説的に言われていることとは反対に、一回咲きの薔薇も剪定することが出来ます。デリケートな作業で、水平に伸びた枝を弱く剪り、前年に伸びた大きな枝はもうちょっと強く剪ります。灌木性の薔薇も、太い幹を持ったツルバラと同じように、適当な樹に寄せて伸ばすことで、たくさん花を咲かせることが出来ます。

もちろん、多回咲きの薔薇のように丸坊主にしてはいけません。この種の薔薇(多回咲き、の薔薇)はからみつくつかないは別にして、大きくなるものです。からむことと大きくなることは別です。大きくなることでシーズンに何回も花を咲かせるのです。

この薔薇は、強剪定に耐えますが、蔓性の枝についてだけは、一回咲きの薔薇のように注意して剪定しなければなりません。

よく、枝の下から数えて三つ芽の芽のところで剪定しろと言いますが、注意してください。全てに於いて、一般化は、調子に乗ると間違いの元になるからです。

薔薇の成長が遅ければ遅いほど、より強く剪定するべきです。そのことによって、栄養を送るべき枝の数が少なくなり、残された枝はより大きくなり、花もたくさん着けるようになるからです。薔薇が丈夫であればあるほど、強く剪定せずに伸ばすべきです。樹液が満ちあふれているのでどんどん成長するからです。

丈夫な薔薇は思い通りに剪定できます。全体のシルエットを調和した形にととのえ、樹の真ん中まで良く日が通るように枝の中を剪定します。大きな枝は元から剪ってしまうことが出来ます。余分な無駄枝も剪ってしまいましょう。無駄枝は棘がより多く、色が違うので分かります。それは接ぎ木に出来ます。こういう風に手入れをすれば、薔薇は何十年も若者のようにみずみずしく生き続けるのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 19.12.02

2002年12月18日水曜日

ナショナリズムに逃避する人たち

2002.12.18
インターネットの面白いところは、普段お話しする機会がないような、いろんな人々と意見交換などが出来ることであり、それなりに勉強になるし刺激を受けることが多いのだが、最近気になっているのが、ネットニュースなどでのナショナリズムの高まりである。在日韓国人や外国人に対する露骨な攻撃や、地域差別的な発言、また西欧(米国)や中国に対する感情的な反発や、日本を奉るあまりに南京大虐殺の事実を誤魔化したりする暴論すら目にする。もともとこういう類の人間は居たことは居たのであるが、最近になって特に目立つ。背景には長引く不況と日本の国際的地位の低下がもたらしたフラストレーションの蓄積があるように感じる。

もともと日本人は、こういう紋切り型の決めつけは厭だが、集団の中に自己のアイデンティティーを見いだす人が多いと言われてきた。個人主義者が日本の歴史にいないこともなかったが、それらは常に集団からはみ出してしまった、いわば隠者としての個人主義者に過ぎなかった。大部分の日本人は、自己が所属する集団の盛衰を自己の盛衰と同一視して生きてきた。その集団とは、イエであったり、村であったり、藩であったり、会社であったり、そして「日本」であるわけだ。しかし最近は、村は遠くなり、企業は国際化で一層ゲゼルシャフト化してきているし、いよいよ自己の拠り所とは「日本」しかないと言うことになるらしい。ところが、バブル崩壊以降の日本の地位低下は甚だしい。またグローバル化と自由化が進み、単に日本人であることだけで高所得が保証されることではなくなっている。終身雇用制度や学歴社会という昔の約束事がもはや通用しなくなりつつある。このことがだんだん明らかになるにつれ、フラストレーションがつのり、日本を必要以上に神聖化し、外国を排斥する言動として表れてきているようだ。フーリガン、ナチス、ルペン支持者など、全て弱者の焦りとフラストレーションを、ナショナリズムに逃避することで発散させているものだ。

明治維新の時も、従来の価値観が否定され大量の士族が失業した。第二次大戦直後も大変動の時期であった。しかし、この二つの変革期とも、日本人は新たに帰属すべき集団を容易に見つけることが出来た。明治時代では、藩に変わって「国家」に帰属すれば良かったし、戦後は、お国に替わって「企業」が忠誠心を捧げる対象となった。でも今回は違う。グローバル革命に於いては、国家や企業は必ずしも利益再配分メカニズムではなくなっているのに、国民はそれに替わる新たな帰属の対象を見つけ得ることが出来ないで居る。世界最強の金持ち国家であるアメリカですら、普通の勤労者の所得は落ち目の規制国家日本の勤労者より低い状況を見れば、グローバル国家とはグローバル化のおかげで得られた富を必ずしも自国民だけに再配分するものでないことは明かであろう。これをおかしいというのは、一国エゴイズムでしかないこともまた事実であり理屈が通らない。勤労者はこれをうすうす感じているから、フラストレーションがたまる。「本当の日本」はもっと美しいものであるというわけで、抽象化された「日本」を主張するようになる。

そういう状況下、人は自分に最後の拠り所を求めるしかない。自分の信念とか理念である。そして強者を目指す。日本は国家として落ち目であっても、それがどうしたというだけの、坂口安吾が焼け跡の中で強烈に示した根性だ。ところが日本では、伝統的に、この「個」が確立されてこなかったことは、上に述べたとおりである。宗教も脆弱である。夏目漱石は「私の個人主義」と題した講演の中で、「集団の倫理は個人の倫理より劣等である」と喝破し、日本における個人主義の未成熟を憂慮したが、100年近く経っても未だ道遠しとの感を、ネットでのナショナリスティックな発言を聞くにつれ、強くする。これは危険な兆候である。このフラストレーションの集団的暴発をどう食い止めるのか。基本的には、このようなネガティブな感情は、単にそれを懐柔することだけでは抑えきれないだろう。フランスではシラク新政権が着々と新政策を打ち出し、従来の左派政権が作り出した歪みを一つずつ矯正し始めている。ところが日本では与野党共に大多数が守旧派で占められている上に、国民の大多数も内心は既得権の受益者であることを自覚しており保守的である。日本の本当の危機は此処にあるように思える。

2002年12月14日土曜日

Poissons volent (2002.12.13) 魚が飛ぶ

2002.12.14 
ルモンド。ギリシャの村にお魚の雨が降ったお話しです。「同じ降るならお札が降ってきたらいいな」と言うような輩は、詩心がないのでしょうね。

par Pierre Georges
Poissons volent (2002.12.13)


魚が飛ぶ

結局のところ、そんなに気を落とすこともない。原油でいつも汚染されている海や、しょっちゅう起こる些細な犯罪事件や、経済指標がいつも錐揉み状態にあることや、天気予報はいつも警戒予報ばかり出すことなど、僕らの住むところには厭なことはいっぱいあるけれども。

そんなことは「なにくそ」と言って、ちょっぴり優しい気持ちを持とう。詩心を持とう。たとえば、このアテネからの短い電報だ。アテネの天気は、必ずしもいい天気ばっかりとは限らない。ギリシャの北部の山間地方となれば尚更。でも、あの辺の嵐は、時として人に夢を見させ、笑みをもたらすような趣味の良い嵐だ。コロナという山間部の村で、火曜日、雨が降った。何百という小魚の雨である。無数のほたるの鱗片が天から降ってきたように。

とてもびっくりするような現象だ。というのも「フライの嵐だ、子供達フライパンもってこい」なんと言うことは、そう毎日起こることではないから。だから、これは撮影されてテレビでも報道された。嘘じゃないのだ、本当のことだ。サロニック大学の気象学の先生はちゃんと説明をしてくれた。どんな現象にも説明は付き物だ。翼も持っていないし、熱気球用の浮き袋も持っていないお魚がどうして雨になって降ってきたのかも、ちゃんと説明出来るのである。

こういうことのようだ。1)この地方で激しい悪天候が発生していた。2)その結果、暴風は小規模の竜巻を発生させ、それが電気掃除機のように、近くにあるドイラニ湖の水を吸い上げた。3)その湖の小さな魚が湖水と一緒に吸い上げられ、天高く舞い上がり、北部の方に飛んでいき、そこで雨となって、あたかも奇跡のように村の屋根や路地の上に降り注いだというわけだ。

このようにして数々の伝説や奇跡が起こった話が生まれてくるのは、疑いないところだ。とにかく、このことでコロナの村に住む人々は、自分が歳を取った時に子供に語り継ぐべきお話しを持つことになった。天から魚が降ってきたあの火曜日のことを。これこそ過ぎ去った出来事を伝説として口承で伝えてゆく地方の伝統を利用するべき出来事なのだ。

このお話は我々の気象学からして明らかに珍しいことだ。非常に珍しい。でも決して起こりえないことではない。たとえば、ある朝、または夜、木々の葉っぱが、自動車の車体が、黄色い鱗片で覆われているというような、ある種の夢のような詩的な発見をすることがある。そう、これは起こることだ、保証してもいい。砂漠でもないのに、近くに砂丘がないのに、風が砂を運んで来るではないか。そして砂の雨が降る。遠くの砂漠からの砂が、あのいい香りがする熱い砂が、降ることがあるではないか。

そういう時、いつも同じ夢を見る。パリ・ダカール間に長く伸びる不動の旅の路が、あなたの駐車場まで伸びてきている夢だ。砂を含んだ風、その結果としての砂の雨は、よく知られた現象である。北アフリカから、サハラ砂漠から、風はあたかも巨大な電気掃除機のように、砂を吸い上げ、高く吹き上げ、成層圏にまで持ち上げる。この美しいイメージを思い浮かべてみよう。その砂が追い風を受け、うぶ毛のように飛び、やがて降り注いでくるのが見える。

よく分かったでしょう。これで用心深い人は、牛よけバンパーとワイヤー巻き上げ機付の四輪駆動車を、パリのアブキール通りに吹く砂嵐に備えて買うことになるかもしれない。冗談を言い合うのではなく、むしろ恐怖に震えましょう。最大級の暴風が彼の地で発生したら、明日、パリに降るのは、保証しますが、それはサソリの雨なのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.12.02

2002年12月8日日曜日

Le Monde : 年寄り達、働け!

2002.12.8 
ルモンド。今日の論説は「年寄り達、働け!」とする厳しいご指摘です。日本もフランスも同じような高齢者問題を抱えているので身につまされます。基本的にはその通りですが、日仏共に、労働生産性の上昇の余地は、まだまだ相当あると思う。米国では労働生産性が今でも上昇中なのに、日仏では労働生産性が停滞しているのです。生産量は、労働者数、労働時間に加えて「労働生産性」の関数ですから、生産性が1%でも上がれば大きく変わる。またルモンドも分かっているように週35時間労働制度なんかもまず撤廃するべきですね。
par Eric Le BoucherAu boulot, les vieux ! (2002.12.8)

年寄り達、働け!

総合計画局は今週ある報告書を発表した。この報告書は自分の子供達の将来に関心のある全ての親たちが急いで熟読すべきものである。市場経済が勝利したなぞ言って「計画」の有用性を疑問視する連中も(特にそういう連中は政府内に多く、この6ヶ月この総合計画局を尊大にも無視してきたのだが)、この報告書を読んで深く考えるべきである。ここに、非常に慎重に、しかし最大限の真剣さでもって調べられた我々の将来が、きわめて明確に示されているのだ。

戦後のベイビーブーマー世代がもうじき隠退生活に入ることは知られている。それぞれの職業の年齢ピラミッド構成から、総合計画局の専門家は、職業毎に予想される退職者数を計算した。それにこれまでの傾向を延長して創出されたり消滅したりする雇用者数を付け加えた。これで我々子供の世代の雇用状態を表す大きな数表が完成したのだ。

どこから説明しようか。一番いいのは詳しく全部読むことだ(参照文献、ルモンドの12月7日のレポートおよび発表報告書原文)。様々な発見がある。たとえば、今後の採用者数が一番多いのは政府セクターだ。2000年から2020年にかけて、公務員の必要補充員数は、まとめて50万人と推計されている。政府セクターは、70万人の雇用を必要とする家政補助セクター(乳母、家政婦、庭師などなど)に次ぐ大きな雇用吸収部門となっている。他に、産業自体が若く定年退職者数が少ないが、情報・通信・研究部門でも雇用増が見込まれる。これらの新しい部門では発展が見込まれ多くの雇用が創られるが、職は高技能資格者に限定される。

次に来るのが、よりみんなに開かれた職場だが、工業部門や健康福祉部門。又しても驚きだが、これらの産業部門は新卒者を雇用するのに苦労することになるとのことだ。労働市場の力関係は、従来は給与労働者にとって不利となっていたのであるが、力関係は逆転する。今後は会社側が労働者をどうしてつなぎ止めるか、その術を学ばねばならない。これは既にして今の新卒者に見られる。しかし、手工業者やレストラン経営者なども、いま既に若者を採用するのに苦労すると文句を言っているが、同じことを努力しなければならない。でも、それは自分たちの責任でもある。これらの職種は、若者を採用するには、職業のイメージや就業慣行や、もちろん報酬も、根本的に見直さないといけない。1968年に社会人になったベイビーブーマー達は、今度は自分が引退することで最後の革命を引き起こすことになるのだ。

でも68年世代はそんなに急に退職していくのだろうか。この報告書のもう一つの教訓は(今までの常識を)疑えということにある。もし退職者数と新規就業者数がこのまま推移して行けば、結果は国の経済にとって悲劇的なものとなるのだ。以前は、この人口構造からして、将来は退職者数が新規就業者数を上回ることで、失業者数は減ると単純に算術計算して、将来は失業問題は解決すると考えられてきた。しかし単純計算ではその通りだが、実態は全然ちがうことが分かったのだ。

専門家の計算では現在9%に達している失業率は、確かに下がることは下がるものの、2010年までの平均成長率を年率2.4%として、2010年時点で7.9%にまでしか下がらないと計算している。此処に悲劇がある。この数字でも楽観的すぎるのである。定年退職は、とりもなおさず、生産活動人口の減少である。2006年以降毎年少なくとも2万人ずつ就業希望者が減少する。それに例の不吉な週35時間労働制度を加えると、経済の潜在成長率は低下せざるを得ない。「生産労働人口のほんのちょっとした減少でも成長率を2%以下の押し下げることになる」と総合計画局の責任者は言う。

これは国家経済の一番深刻な問題である。社会負担が重いとか、税金がどうだとか、国家の制度が古くて疲弊しているとか、いろいろ言うことはいいが、そんな問題はこの厳しい現実の問題(労働人口問題)に較べれば、どうってことはないのだ。働く人の数がどんどん減る国ではより豊かになることなど期待できないのだ。

解決策を求めねばならない。どんな? 報告書は全ての可能性を吟味している。女性の就業率を高めること? 確かにその通りだが、もう既に女性の就業率は男性の就業率とほとんど同じにまで高まっている。これだけでは十分ではない。学校の卒業年齢を低くして、早期に職業に就かせるようにするか? でもこれは歴史の流れに逆らうものだし、就業者の能力形成を損なうものである。外人労働者を入れる? それは明らかに一番簡単な解決策ではあるが、もう充分知られているように融和問題があるし、高い能力を持つ労働者を必要とする経済のニーズに応えるものではない。

唯一、本当に工夫できる余地があることは、仕事をより長く続けさせることである。「年寄り達、働け!」である。これが全ての問題の解決の方向である。年金会計の赤字を解決するためには、年金掛け金を払う期間を、大ざっぱに言って5年間長くする必要がある。政府はこれを言い出すのにびくびくしているから、たぶん当初は2年6ヶ月の延長(残りは2008年の新たな年金見直しの時に延長)とするだあろう。しかしこれは数字が明らかに示していることなのだ。経済が十分な潜在成長率で成長するために、また経済が必要とする労働者を確保するために、今流行となっている早期退職制度という殺人行為はやめさせるべきである。

フランスは怠け者のチャンピオンである(グラフを参照)。60歳以上の人間で就業しているのは15%にしか過ぎない。1970年当時ではこれが70%だった。会社側と労働者側はこれまで手をつないで、人員合理化の手段として早期退職制度を推進してきた。痛みの少ない手段ではあるが、同時に全体経済にとっては非経済的な手段である。社会問題大臣は、フランス・テレコムの2万人削減計画発表の直前、この問題はフランスの勇気の欠如を示すものであるとして、早期退職制度は「国家的災難」であると指摘した。フランスは本当に高齢者の就業を全体的に見直さねばならない。ベイビーブーマー達、あなた方はピルを飲んで、フリーセックスをして、充分な子供を作ることをしなかった! 仕方がない。働いてください。

Eric Le Boucher

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 08.12.02

2002年12月4日水曜日

珊瑚集:月の悲しみ シャアル・ボオドレエル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
  Tristesses de la Lune Charles Baudelaire

Ce soir, la lune rêve avec plus de paresse ;

Ainsi qu'une beauté, sur de nombreux coussins,

Qui d'une main distraite et légère caresse

Avant de s'endormir le contour de ses seins,



Sur le dos satiné de molles avalanches,

Mourante, elle se livre aux longues pâmoisons,

Et promène ses yeux sur les visions blanches

Qui montant dans l'azur comme des floraisons.



Quand parfois sur ce globe, en sa langueur oisive,

Elle laisse filer une larme furtive,

Un poëte pieux, ennemi du sommeil,



Dans le creux de sa main prend cette larme pâle,

Aux reflet irisés comme un fragment d'opale,

Et la met dans son cœur loin de yeux du soleil.


(Les Fleurs du Mal)


  月の悲しみ シャアル・ボオドレエル



「月」今宵、いよよ惰(ものう)く夢みたり

おびただしき小蒲団に亂れて輕き片手して、

まどろむ前にそが胸の

ふくらみ撫づる美女の如。


軟き雪のなだれの繻子(しゅす)の背や、

仰向きて横はる月は吐息も長々と、

青空に真白く昇る幻の

花の如きを眺めやりて、



惰(ものう)き疲れの折折は下界の面(おも)に、

消え易き涙の玉を落す時、

眠りの仇敵、沈思の詩人は、


そが掌に猫眼石の破片(かけ)ときらめく

蒼白き月の涙を摘取りて

「太陽」の眼(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。



『珊瑚集』収録のボードレールの詩は全部で七つ。これが最後のものです。最後に美しい詩が入っていてほっとしました。「月」は "lune"、それから "lunatique" という言葉が出てきました。「気が狂った」という意味です。お月様から滴が垂れて、その滴が頭に入れば、人は気が狂うと言われていた。日本の「竹取物語 り」でも、月の光を浴びるのは不吉というくだりがあり、これは東西共通の言い伝えのようです。荷風は月を愛でる人でした。昭和20年、偏奇館炎上の際、荷 風はゆうゆうと愛宕山にかかる繊月を仰ぎ、それを日記に書きます。太陽よりは月を、表通りよりは裏通りを、社会的栄華よりは陋巷に隠棲することをのぞんだ 詩人の原点が、此処にも見られます。

余丁町散人 (2002.12.4)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月3日火曜日

珊瑚集:腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Une Charogne Charles Baudelaire
   

Rappelez-vous l'objet que nous vîmes, mon âmes,

    Ce beau matin d'été si doux :

Au détour d'un sentier une charogne infâme

    Sur un lit semé de cailloux,




Les jambes en l’air, comme une femme lubrique

    Brûlante et suant les poisons,

Quvrait d'une façon monchalante et cynique

    Son ventre plein d'exhalaisons.



Le soleil rayaonnait sur cette pourriture,

    Comme afin de la cuire à point,

Et de rendre au centuple à la grande Nature

    Tout ce qu'ensemble elle avait joint ;



Et le ciel regardait la carcasse superbe

    Comme une fleur s'épanouir,

La puanteur était si fort, que sur l'herbe

    vous crûtes vous évanouir



Les mouches bourdonnaient sur ce ventre putride,

    D'où sortaient de noirs bataillons

De larves, qui coulaient comme un épais liquide

    Le long de ces vivants haillons.



Tout cela descendait, montait comme une vague

    Ou s'élnçant en pétillant ;

On eût dit que le corps, enflé d'un souffle vague

    Vivait en se multipliant.



Et ce monde rendait un étrange musique,

    Comme l'eau courante et le vent,

Ou le grain qu'un vanneur d'un mouvement rythmique

    Agite et tourne dans son van.



Les formes s'effaçaient et n'étaint plus qu'un rêve,

    Une ébauche lente à venir,

Sur la toile oubliée, et que l'artiste achève

    Seulment par le souvenir.



Derrière les rochers une chienne inquiète

    Nous regardait d'un œil fàché,

Epiant le moment de reprendre au squelette

    Le morceau qu'elle avait lâché.



- Et pourtant vous serez semblable à cette ordure,

    A cette horrible infection,

Etoile de mes yeux, soleiul de ma nature,

    Vous, mon ange et ma passion !



Qui ! telle vous serez, ô la reine des grâces,

    Après les derniers sacrements,

Quand vous irez, sous l'herbe et les floraisons grasses,

    Mosir parmi les ossements.



Alors, ô ma beauté !  dites à la vermine

    Qui vous mangera de baisers,

Que j'ai gardé ka forme et i'essence divine

    De mes amours décomposés !


(Les Fleurs du Mal)

腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル


わが魂などか忘れん、涼しき夏の

晴れし朝に見たりしものを。

小径の角にみきくき屍

捨てし小石を床にして、



毒に蒸されて血は燃ゆる

淫婦の如く足空ざまに投出し

此れ身よがしと心憎くも

汗かく腹をひろげたり。



照付くる日の光自然を肥す

百倍のやしなひに

凡てを自然に返すべく

この屍を焼かんとす。



青空は麗しき脊髄を

咲く花かとも眺むれば、

烈しき悪臭野草の上に

人の息をも止むべし。



青蠅の群翼を鳴らす腐りし腹より

蛆虫の黒きかたまり湧出でて、

濃き膿の如くどろどろと

生ける襤褸をつたひて流る。



此ら等(ち)のもの凡て、寄せては返す波にして、

鳴るや、響くや、揺らめくや。

吹く風に五體はふくらみ

生き肥ゆるかと疑(あやし)まる。



流るる水もまた風に似て

天地怪しき楽をかなで、

節づく動揺に篩の中なる

穀物の粒の如くに舞狂へば、



忘られし繪絹の面に

ためらひ描く輪廓の、

絵師は唯だ記憶をたどり筆を取る、

形は消えし夢なれや。



巖の彼方に恐るる牝犬

いらだつ眼に人をうかがひ、

残せし肉を屍より

再び噛まんと待構ふ。



この不浄この腐敗にも似たらずや、

されど時として君も亦。

わが眼の星よ、わが性の日の光り。

君等、わが天使、わが情熱よ。



さなり形態の美よ、君もまた此の如けん。

終焉の斎戒果てて、

肥えし野草のかげに君は逝き

白骨の中に苔むさば、其の時に、



ああ美しき形態よ。接吻に、

君をば噛まん地虫に語れ。

分解されしわが愛の清き本質と形とを、

われは長くも保ちたりしと。





すさまじい言葉の連続でいささか辟易します。でも音の響きとしてはいい詩で、シャンソンで歌えばきれいな歌になるかも知れない。内容ですが、真宗の御文に も同じようなのがありました。「・・・されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」で知られる白骨御文です。人の考えることは東も西もそう変わ らないと言うことでしょうか。

余丁町散人 (2002.12.3)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月2日月曜日

Le Monde : 混血のフランス

2002.12.2
ルモンド紙。今般、アレクサンドル・デュマの遺体が、国家的な偉人をまつるパンテオンに移され、葬られましたが、ルモンドの社説はこのことの意味について述べています。ちょっと感動してしまいました。排他的な日本の純血主義者達は、この論説を読んで、少しは考えて欲しいと思います。

L'éditorial du Monde
La France métisse (2002.12.1)


混血のフランス

11月30日、アレクサンドル・デュマがパンテオン入りをしたが、デュマと共に一つの強い風がこの殿堂(パンテオン)に吹き込んだ。文章が無限の言葉となり、生命が肥沃な小説となるような、激しい抵抗しがたい生命のほとばしりが、この殿堂に入ったのだ。この偉大な人間を通じて生み出された巨大な作品を、祖国が評価したのは明かである。デュマの悪口を言う連中はご愁傷様。この無限のユーモア感覚を持つ作家によってもたらされた大衆ベストセラー文学が、その復讐を果たしたのだ。しかし、忘れてはならないことは、この一体主義の世の中で、この人気がどれだけの征服と復讐の意味合いを持つかと言うことである。好意的であればあるほど、後世の人間は、作品の中で大活躍するマントと剣の英雄達があまりにも有名すぎるからか、この「作家」を作り出した人間(デュマ)そのものについて、何も知らないまま、見過ごしてしまいがちなのである。

なぜなら、彼は、三銃士やモンテ・クリスト伯などの、フランス文学の必須の作品群の作者としての永遠の神話的存在ばかりではないのだ。デュマは同時に、共和党員であり、社会改革に激しく取り組んだ人間であり、ガリバルディの赤シャツを着たバリケードの英雄を支持した人間なのである。そういう人間としてシラク大統領は今回デュマをパンテオンに入れたのだ。彼は同時に、ヨーロッパ人でもあった。精力的にコーカサスからチェチェンまで旅行し、世界に、またその雑駁さに好奇心を示した人間である。最後に、もっとも大事なことだが、彼は白人と黒人の混血児であり、人種差別主義の犠牲者であり、奴隷の子孫であり、奴隷売買の目撃者であったのだ。要するに「混血のフランス」のシンボル的存在なのである。この「混血のフランス」こそが、デュマと共に、本来あるべきところ、すなわちフランスの国家アイデンティティーの心臓部分(パンテオン)に受け入れられたのである。

2世紀前、1802年7月24日、デュマは生まれた。1794年にハイチの奴隷反乱をなだめるために一時禁止されたの奴隷および奴隷売買を、ナポレオンが1802年5月20日にちょうど復活させたばかりの時であった。この歴史こそが、植民地主義と人種差別主義、混血と排他主義、圧政と反抗の歴史こそが、パンテオン入りしたアレクドル・デュマの生々しい小説の原点なのである。アフリカ奴隷女の孫、アレクサンドル・デュマは、同じ名前のアレクサンドル・デュマ将軍の息子であるが、父のデュマ将軍は、奴隷小屋に生まれ、1776年に身分証明書なしでフランスに渡り、ルイ16世に仕える一介の竜騎兵となったが、その能力と勇敢さが飛び抜けており、「革命の将軍」にまで出世した人間であった。

クロード・リブがその著書『女王陛下の竜騎兵』で、デュマの父のことについて雄弁に詳しく書いているが、この共和党員で人文主義者であった混血の将軍の運命は、我々に我々の歴史の暗い面を思い起こさせるものである。1802年5月29日、混血の士官は陸軍から追放されることになる。1802年7月2日には、フランスの内地領土には黒人と混血児は入国禁止となる。1803年1月8日には、異人種間の結婚は禁止されるなどなどである。1806年、悲嘆の中で死んだデュマ将軍は、この人種差別主義の勃興が引き起こした多くの犠牲者の一人であったのだ。この家族の悲劇こそが、作家デュマをして復讐をはじめさせる起点となったものだ。混血のデュマとしての、多様で入り混じったアイデンティティーのシンボルとしてのデュマの復讐である。

2002年11月26日火曜日

Le Monde: 犬は、東アジアにおいて「人間の最良の友」となった

2002.11.26

ルモンド。犬の家畜化は東アジアにおいて最初に始まったとする研究結果が発表されました。これはすごいことです。地球上最初の土器も東アジアで(それも日本列島で)発掘されています。モンゴロイドは地球上で一番古い「文明人」なのです。(もっとも古いだけではあまり自慢にはなりませんが。シーラカンスの例もあるし)

Le chien est devenu "meilleur ami de l'home" en Asie orientale(2002.11.24)

犬は、東アジアにおいて「人間の最良の友」となった

それは、アン王女が11月21日、英国の王室メンバーとしては1649年のチャールズ1世以来はじめて、その愛犬のブルドッグ・テリアが子供も襲ったとして裁判所の被告席に立ったのよりも、以前のことである。

それはまた、昨年のクリスマスにアイボなどのロボット犬が流行ったよりも前のことである。名犬リンチンチンやミルーなどよりも前・・・、それは1万5000年から4万年前に東アジアのどこかで起こったことなのである。そこにおいて、はじめて、狼から派生した犬が人間に飼い慣らされ、その子孫達がやがてユーラシア大陸、新大陸へと広がってきたのだ。このシナリオは二つの遺伝学者達のチームが記述し、11月22日付の雑誌「サイエンス」に掲載された。

今日、犬には多くの種類がある。小さいのや大きいの、毛むくじゃらのもあれば毛の短いのも、頬が垂れたのも鼻がとんがったのも、むく犬のようにおとなしいのもブルドッグのようにケンカ好きなのも、いろいろである。国際犬協会では300種類の犬があるという。それも血統書付のものだけでの話し。こんなに種類が多いので、ダーウィンも「犬の祖先を正確に知ることは、ほとんど不可能なことだ」と書いたぐらいである。事実、狼とコヨーテとジャッカルのうち、どれが犬の祖先なのか、どうも狼らしいとは思われるのだが、正確には分からなかった。1997年になって、はじめて「犬狼」というものを祖先と決定することとなったくらいである。

カリフォルニア大学のチャールズ・ヴィラのチームは、世界中に広がる27群から162の狼を選び、それをコヨーテとジャッカル、それに67種の140匹の犬のDNA配列を比較した。その結果、DNAミトコンドリアは犬と狼ではわずか1%の差違しかないことが分かり、狼が犬の唯一の祖先であることが確定されたのである。

その研究によれば、最初の野生の犬が出現したのは約13万5000年前、すなわち人間による犬の飼い慣らしより10万年前とのことである。コヨーテのジャッカルは狼から派生したが、分岐はもっと以前(約100万年前)と考えられ、犬とは関係ないとのこと。

しかし、どこで犬は狼から分岐したのか。これまたDNAミトコンドリアの出番である。ストックホルムの王立科学研究所のピーター・サヴォレネン氏によれば、DNAの「コントロール領域」という部分で突然変異の蓄積がなされるのであるが、それを東アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ極北からの654匹の犬について調べたところ、凡ての犬でほとんど共通の遺伝的特徴が見られたが、驚くことに、東アジアの犬において遺伝的な多様性が一番広く、一番進化していることが観察されたとのことである。

「これまでわれわれは中東地域で犬の家畜化が始まったと、考古学の発掘結果や他の家畜の多さから考えてがちであった」とサヴォレネン氏は言う。しかし遺伝子は一番信頼できるので上記の結論となった。東アジアの人間はただ犬を最初に家畜化したばかりではなく、多くの違う種類の狼から犬をブリーディングすることもしている。だからこれは「突然変異の偶然」ではないとサヴォレネン氏は言う。この犬の家畜化は約1万5000年前のことであると。

また、チャールズ・ヴィラ氏のチームは、アメリカ大陸の犬についても興味を持って調べた。アメリカ大陸の犬はアメリカ土着の狼から家畜化されたものか、それとも犬としてアメリカ大陸に入ってきたものかという点に興味を持ったのだ。これもDNA配列を調べると、旧大陸の犬も新大陸の犬も祖先は同じであることが分かった。だから犬は、最初にシベリアやモンゴルからベーリング海峡を渡ってアメリカに入ってきたアメリカインディアンの祖先達と一緒に、約1万3000年前に新大陸に渡ってきたことが分かった。かれは犬の家畜化は4万年前あたりだろうという。

この研究結果を読むと、現代の犬の種類の多様性は、最近数世紀の飼育手法によるもので、もともとの原種の相違によるものでないことが分かる。でも、まったくのところ、何故人間は犬を友とすることが有用であると判断したのだろうか? それはDNA鑑定でも分からない。しかし18世紀のフランスの博物学者ビュフォンは、当時の人類中心主義調で、こう書いている。「どうして人類は、犬の協力なくして、他の動物たちを征服し屈服させ奴隷化することが出来たであろうか。安全を確保し、世界を人間中心にまとめていくために、人間はまず動物の中に味方を求めねばならなかった。優しく撫でてやるとくっついてきて服従する動物を味方に付ける必要があった」ということである。

Catherine Vincent

2002年11月25日月曜日

珊瑚集:仇敵 シヤアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
L'Ennemi   Charles Baudelaire


Ma jeunnesse ne fut qu'un ténébreux orage,

Traversè çà et là par de brillants soleils ;

Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,

Qu'il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.



Voilà que j'ai touchè l'automne des idées,

Et qu'il faut employer la pelle et les râteaux

Pour rassembler à neuf les terres inondées,

Où l'on creuse des tous grands comme de tombeaux



Et qui sait si les fleurs nouvelles que je rêve

Trouveront dans ce sol lavé comme une grève

Le mystique aliment qui ferait leur vigueur ?



- O douleur !  ô douleur !  Le temps mange la vie

Et l'obscur Ennemi qui nous ronge le cœur

Du sang que nous perdons croît sst se fortifie !


(Les Fleurs du Mal)

仇敵   シヤアル・ボオドレヱル
わが青春は唯だ其処此処に照日の光漏れ落し

暴風雨の闇に過ぎざりき。

鳴る雷のすさまじさ降る雨のはげしさに、

わが庭に落残る紅の果実とても稀なりき。


されば今、思想の秋に近きて、

われ鋤と鍬とにあたらしく、

洪水の土地を耕せば、洪水の土地に

墓と見る深き穴のみ穿ちたり。


われ夢む、新なる花今更に、

洗はれて河原となりしかかる地に、

生茂るべき養ひを、いかで求め得べきよ。


ああ悲し、ああ悲し。「時」生命を食ひ、

暗澹たる「仇敵」独り心にはびこりて、

わが失える血を吸い誇り栄ゆる。



「さ れば今、思想の秋に近きて」これを読めば、本当に「ああ悲し、ああ悲し」と感じます。でも荷風がこれを訳したのはまだ20代でした。すでに心は老人だっ た。老人の美学に憧れている。ただ事ではありませんね。



余丁町散人 (2002.11.25)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

珊瑚集:「秋の歌」シャルル・ボードレール


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

「秋の歌」シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Chant d'Automne Charles Baudelaire
I

Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;

Adieu, vive clarté de nos étés trop courts !

J'entends déjà tomber avec des chocs funèbres

Le bois retentissant sur le pavé de cours.




Tout l'hiver va rentrer das mon être : colère,

Haine, frissons, horreur, labeur dur et forcé,

Et, comme le soleil dans son enfer polaire,

Mon cœur ne sera plus qu'un bloc rouge et glacé.



J'écoute en frémissant chaque bûche qui tombe ;

L'echafaud qu'on bâtit n'a pas d'écho plus sourd.

Mon esprit est pareil à la tour qui succombe

Sous les coups du bélier infatigable et lourd.



Il me semble, bercé par ce choc monotone,

Qu'on cloue en grande hâte un cercueil quelque part,

Pour qui ? - C'était hier l'été ; voici l'automne !

Ce bruit mystérieux sonne comme un départ.




II

J'aime de vos longs yeux la lumiére verdâtre,

Douce beauté, mais tout aujourd'hui m'est amer,

Et rien, ni votre amour, ni le boudoir, ni l'âtre,

Ne me vau le soleil rayonnant sur la mer.



Et pourtant aimez-moi, tendre cœur !  soyez mère,

Même pour un ingrat, même pour un méchant ;

Amante ou sœur, soyez la douceur éphemère

D'un glorieux automne ou d'un soleil couchant.



Courte tâche !  La tombe attend ; elle est avide !

Ah !  lassez-moi, mon front posé sur vos genoux,

Goûter, en regrettant l'été blanc et torride,

De l'arrière-saison le rayon jaune et doux !

(Les Fleurs du Mal)

秋の歌 シャアル・ボオドレエル


吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、

夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。

われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、

落つる木片のかなしき響。


冬の凡ては ー 憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、

又強ひられし苦役はわが身の中に帰り来る。

北極の地獄の日にもたとえなん、

わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。


をののぎてわれ聞く木片の落つる響は、

断頭台を人築く音なき音にも増(まさ)りたり。

わが心は重くして疲れざる

戦士の槌の一撃に崩れ倒るる観楼かな。


かかる惰き音に揺られ、何処にか、

いとも忙しく柩の釘を打つ如き・・・・そは、

昨日と逝きし夏の為め。秋來ぬと云ふ

この怪しき聲は宛(さなが)らに、死せる者送出す鐘と聞かずや。




長き君が眼の緑の光のなつかしし。

いと甘かりし君が姿など今日の我には苦き。

君が情も、暖かき火の辺や化粧の室も、

今の我には海に輝く日に如かず。


さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。

母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。

恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、

又沈む日の如、束の間の優しさ忘れそ。


定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。

ああ君が膝にわが額を押し当てて、

暑くして白き夏の昔を嘆き、

軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。



陰鬱な冬を迎える寂しい歌です。東京はまだいいのですが、パリの冬はとても重苦しい。でもどこにでも暖房が入っているので、生活環境としては一昔前の東京 よりはよほど過ごしやすかったと思う。「中庭の敷石に、落つる木片のかなしき響」とあるのは冬に備えて薪を中庭の隅に投げ込む音のことです。「君が情も、 暖かき火の辺や化粧の室も」夏の海の太陽に「如かず」というのは、ちょっとオーバーな気がしますが、夏が東京ほど過ごしにくくないからなんでしょうね。

余丁町散人 (2002.11.25)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月21日木曜日

珊瑚集:暗黒 シャアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

「暗黒」シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Obsession Charles Baudelaire

Grands bois, vous m'effrayez comme des cathédrales ;

Vous hurlez comme l'orgue ; et dans nos cœurs maudits,

Chambles d'éternel deuil oû vibrent de vieux râles

Réponent les échos de vos De profundis.


Je te hais, Océan ! tes bonds et tes tumultes,

Mon esprit les retrouve en lui ; ce rire amer

De l'home vaincu, plein de sanglots et d'insultes,

Je l'entends dans le rire énorme de la mer.


Comme tu me plairais, ô nuit ! san ces étoiles

Dont la lumière parle un langage connu !

Car je cherche le vide, et le noir, et le nu !



Mais les ténèbres sont elles-mêmes des toiles

Où vivent, jaillisant de mon œil par milliers,

Des êtres disparus aux regards familiers.



(Les Fleurs du Mal) 
暗黒 シャアル・ボオドレヱル
森よ、汝、古寺の如くに吾を恐ろしむ。

汝、寺の楽の如く吠ゆれば、呪われし人の心、

臨終の喘咽聞ゆる永久の喪の室に、

DE PROFONDES 歌う聲、山彦となりて響くかな。


大海よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、

吾が魂は、そを汝、大海の聲に聞く。

辱めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、

これ、おどろしき海の笑ひに似たらずや。


されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と

赤裸々求むる我なれば、星の光さえ覚えある言葉となりて

われに語ふ其の光さえなき夜ぞうれしき。


暗黒の其の面こそは絵絹なりけれ。

亡びたるものども皆覚えある形して

わが眼より數知れず躍りて出づれば。




ちょっと外れますけど、フランスの赤ちゃんってのは、部屋を真っ暗にさせてひとりで寝かすんです。慣れてくると暗くしないと寝ないし、暗い方が安心するよ うになる。何も恐ろしいものが見えない方が怖くないし、楽しい夢が見られるようなのです。「されば夜ぞうれしき」なんです。ボードレールもそういう赤ちゃ んだったのでしょうね。

荷風は "le nu" を「赤裸々」と訳しています。ちょっとポルノっぽくって、これは荷風の obsession だとおもう。


余丁町散人 (2002.11.21)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月17日日曜日

Le Monde : シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?

2002.11.17

ルモンド紙より、今日はシャーロック・ホームズについて。作者ドイルは聖書から多分に影響を受けたとするバチカン関係者の新説が発表されたとのこと。先日ご紹介したアルカイダの話しといい今日のホームズの話といい、誰もが「本家はうちだ」と我田引水したくなるもののようです。笑えます。

Sherlock Homes : polar ou Evangiles ? (2002.11.13)

シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?

著者のコナン・ドイルはキリスト教とは対立してはいたものの、さるバチカンの学者によれば、シャーロック・ホームズが活躍する小説は部分的にテーマと筋書きにおいて聖書を下敷きにしたものであるとのことである。

ロンドンのタイムズ紙のインタビューを受け、ローマ教皇大学の哲学の教授であるマリオ・パルマロは、ドイルは、意識的にまた無意識的に、幼いときに受けたイエズス会の教育により影響されていたと断言する。

でもドイルは1859年に生まれ、1876年にエジンバラ大学の医学部に在籍中にカトリックを放棄している。しかしマリオ・パルマロは「ドイルは最後までカトリックと格闘し続けていた」とする。かれは、その著書『超自然、ワトソン君:シャーロック・ホームズと神の事件』で「福音書には良い推理小説を構成するすべての要素、たとえば死体、人殺し、死体の奇跡的な消滅などの要素が含まれている」と断言するのだ。

もっと具体的に言えば「疑いなく、バスカーヴィル家の犬は悪魔の力を代表するもの」であり、「小説に度々出てくるグリペン・ミールという名前はアングロサクソン語で悪魔という言葉から由来したものである」とのこと。

しかし、シャーロック・ホームズ博物館長のオノーレ・リリー氏によれば、ドイルが聖書に影響されたという話はドイルが信仰を捨てた以上あり得ないのではないかという。しかしバチカンの学者は続ける。「ギリシャ語通訳」の中でホームズが兄のマイクロフトとする会話は、ヨハネ伝の中でのキリストとニコデムスの問答形式と非常に似ていると。「問答リズムが酷似している」とバチカン学者は言う。

さらに推理小説の結末でホームズが遂に真理を理解するという締めくくりも、マリオ・パルマロによれば「聖女マリ・マドレーヌの直感とひらめき」と同じであるという。というものの、ホームズの伝記作家やホームズ専門家の間では、(この新説は)まだまだ疑わしいとされている。ドイルが福音書を説教してたんですって? そんな初歩的な事じゃないんじゃないかしら。

Sylvie Chayette